第1話 血の呪い
私が「呪い」を知ったのは、八歳の時だった。
◇
「お姉ちゃん、見て見て!」
弟のルーカスが庭を駆け回っていた。
四歳になったばかりの弟は、元気いっぱいだった。
金色の髪を風になびかせ、青い目を輝かせている。
「ルーカス、走りすぎないで」
私は本から顔を上げて注意した。
「転んだら危ないわよ」
「大丈夫だよ! お姉ちゃんは心配性だなあ」
ルーカスは笑いながら走り続けた。
その時——
◇
「あっ!」
ルーカスが石につまずいて転んだ。
膝を擦りむいた程度の、小さな怪我だった。
普通なら、絆創膏を貼って終わりの怪我。
しかし——
「お姉ちゃん……血が止まらない……」
ルーカスの声が震えていた。
見ると、膝から流れる血が、異常な量になっていた。
「え……?」
私は驚いて駆け寄った。
小さな擦り傷なのに、血がどんどん流れ出ている。
「お母様! お母様!」
私は叫んだ。
◇
母が駆けつけた時、ルーカスの足は血で真っ赤だった。
「ルーカス!」
母の顔が蒼白になった。
「すぐに医師を呼んで!」
使用人たちが慌ただしく動き出す。
母は震える手でルーカスの傷口を押さえた。
「大丈夫よ、大丈夫……」
しかし、その声は震えていた。
◇
医師が到着するまで、三十分かかった。
その間、血は止まらなかった。
ルーカスの顔色は、どんどん悪くなっていく。
「お姉ちゃん……怖い……」
「大丈夫よ、ルーカス」
私は弟の手を握りしめた。
「お医者様が来るから。すぐに良くなるわ」
しかし、私の手も震えていた。
こんなに血が出るなんて、普通じゃない。
何かが、おかしい。
◇
医師は、傷口を縫合し、特殊な薬草を塗った。
ようやく出血が止まった時、ルーカスは意識を失いかけていた。
「危なかったですな」
医師は深刻な顔で言った。
「もう少し遅ければ……」
「先生、なぜこんなに血が止まらなかったのですか」
父が尋ねた。
父の顔は、今まで見たことがないほど蒼白だった。
医師は、しばらく黙っていた。
「旦那様……やはり、そうでしたか」
「何がです?」
「ブルーメンタール家の……『呪い』です」
◇
その夜、私は両親の会話を盗み聞きした。
「やはり、ルーカスも……」
母の声は、涙に濡れていた。
「お義父様も、お義兄様も……そして、ルーカスも……」
「クララ……」
父の声も苦しそうだった。
「私の家系には、この呪われた血がある」
「男児だけが発症する……止血できない病だ」
「父も、兄も……二十歳を迎えられなかった」
私は、息を呑んだ。
◇
「なぜ……なぜ、私の血筋なのですか……」
母が泣いていた。
「私が、この血を持っていたから……ルーカスに……」
「お前のせいじゃない」
父が母を抱きしめた。
「これは、運命だ……」
「運命……」
「しかし、私は諦めない」
父の声に、決意が込められていた。
「ルーカスを守る。何としても」
◇
私は、部屋に戻って泣いた。
呪い——
そんなものが、本当にあるのか。
弟は、二十歳まで生きられないのか。
「嫌だ……」
私は枕に顔を埋めた。
「ルーカスが死ぬなんて、嫌だ……」
◇
翌日、私は父に尋ねた。
「お父様、『呪い』とは何ですか」
父は驚いた顔をした。
「……聞いていたのか」
「はい」
私は、まっすぐ父を見つめた。
「教えてください。ルーカスの病気のことを」
父は、しばらく黙っていた。
そして、深いため息をついた。
「お前も、知る権利がある……」
◇
父は、書斎で家系図を見せてくれた。
「ブルーメンタール家には、代々伝わる病がある」
父は、家系図を指差した。
「男児だけが発症する。血が止まりにくくなる病だ」
「女児には……?」
「女児は発症しない。しかし……」
父は、言葉を選ぶように言った。
「病を伝える『種』を持っていることがある」
「種……」
「お前の母も、その『種』を持っていた」
「だから、ルーカスが……」
父は、頷いた。
◇
家系図には、多くの名前に×印がついていた。
「この印は……」
「若くして亡くなった者だ」
父の声は、重かった。
「私の父は、十九歳で亡くなった」
「兄は、十七歳だった」
「二人とも、小さな怪我から出血が止まらず……」
私は、声を失った。
こんなにも多くの人が、この病で亡くなっていたのか。
◇
「お父様」
私は、決意を込めて言った。
「私に、医学の本を読ませてください」
「……何?」
「この病のことを、もっと知りたいのです」
「治す方法があるはずです」
父は、困惑した顔をした。
「エリーゼ、お前はまだ八歳だ」
「分かっています」
私は、引き下がらなかった。
「でも、私はルーカスを救いたい」
「何もしないで見ているなんて、できません」
◇
父は、しばらく私を見つめていた。
「……お前は、強い子だな」
「お父様……?」
「分かった。医学の本を用意しよう」
父は、微笑んだ。
しかし、その目は悲しそうだった。
「ただし、無理はするな」
「この病を治す方法は、まだ見つかっていない」
「それでも……?」
「はい」
私は、強く頷いた。
「それでも、探します」
「いつか必ず、ルーカスを救う方法を見つけます」
◇
その日から、私は医学の本を読み始めた。
八歳の私には、難しい内容ばかりだった。
しかし、諦めなかった。
分からない言葉は調べた。
理解できるまで、何度も読み返した。
「エリーゼお嬢様、またお勉強ですか」
メイドが心配そうに言う。
「外で遊んだ方がよろしいのでは」
「いいの」
私は、本から目を離さずに答えた。
「これが、私のやりたいことだから」
◇
ルーカスは、回復した。
しかし、激しい運動は禁止された。
「お姉ちゃん、僕、もう走れないの?」
ルーカスが悲しそうに聞いてきた。
「……しばらくは、我慢してね」
私は、笑顔を作った。
「いつか、また走れるようになるから」
「本当?」
「本当よ」
私は、弟の頭を撫でた。
(絶対に、治す方法を見つける)
心の中で、誓った。
(この呪いを、終わらせてみせる)
◇
八歳の私は、まだ何も知らなかった。
医学の道がどれほど険しいか。
女性が医師になることが、どれほど困難か。
しかし、一つだけ確かなことがあった。
私は、弟を救いたい。
その想いだけは、決して消えなかった。
◇
呪われた血——
それが、私の人生を変えた。
そして、私を医学の道へと導いた。
いつか、この「呪い」の正体を暴いてみせる。
そして、弟を——いや、同じ苦しみを持つすべての人を救う。
それが、八歳の私が立てた誓いだった。




