第15話 継承者
百六十年後——
王都医学院、図書館の特別閲覧室。
◇
一人の少女が、古い本を手に取った。
リーゼ・フォン・ハイムダル——十二歳の医学院生。
彼女には、前世の記憶があった。
日本で救急救命医として働き、二十八歳で過労死した女性の魂が——この少女に宿っていた。
◇
「『微生物学概論』……」
リーゼは、ページをめくった。
古い言葉で書かれているが、内容は理解できた。
『顕微鏡の製作方法』
『微生物の観察・分類法』
『感染症の原因と予防法』
「これ……前世の知識と、同じことが書いてある……」
リーゼは、驚愕した。
「160年前に、こんな本があったの……?」
◇
この本は、長い間図書館の奥深くに眠っていた。
古代語で書かれていたため、誰も読めないまま放置されていた。
「異端の医師の遺品」——そう呼ばれながらも、捨てられることはなかった。
それを——リーゼが見つけた。
◇
リーゼは、後書きを読んだ。
『私は、イグナーツ・ゼンメルワイスという医師です——』
「ゼンメルワイス……」
リーゼは、その名前に引っかかった。
どこかで聞いたことがある。前世で——
「まさか……」
◇
リーゼは、本の奥付を見た。
そこに、見慣れない文字が記されていた。
この世界の文字ではない。
しかし、リーゼには——読めた。
『もし、これを読んでいる者がいるなら、あなたも私と同じ運命を辿った者だろう。
私はこの世界で理解されない。手を洗えと説いても、誰も聞き入れない。
いつか、私の知識は失われるかもしれない。
だが、もし同じ世界から来た者がこれを見つけたなら——
どうか、私の遺した知識を受け継ぎ、この世界の人々を救ってほしい。
真実は、いつか必ず認められる。
同じ故郷を持つ友へ。
イグナーツ・ゼンメルワイス』
◇
「……!」
リーゼは、息を呑んだ。
この文字は——前世の文字だ。
この世界の誰にも読めない文字。でも、リーゼには読めた。
前世の記憶があるから。
「この人……本当に、私と同じ……」
転生者だ。
前世の記憶を持ち、前世の文字を知っている。
著者名として前世の名前を使い——さらに、この世界の誰にも読めない文字でも残した。
同じ「記憶」を持つ者だけが気づけるように。
◇
涙が、ページに落ちた。
百六十年前。
彼は、未来の転生者へ向けて、この言葉を遺した。
孤独の中で、希望を信じて。
「ゼンメルワイスさん……」
リーゼは静かに呟いた。
「あなたは一人じゃなかった」
「今、私がここにいます」
「あなたの遺志を、必ず継ぎます」
◇
リーゼは、本を大切に胸に抱いた。
そして、窓の外を見た。
「160年前の先駆者さん……」
「あなたの知識を、この世界に広めます」
「あなたが救えなかった命を——私が救ってみせます」
「あなたがいてくれたから」
◇
遥か遠く——山奥の小さな村で。
古い墓石が、静かに佇んでいた。
「ルートヴィヒ・ベルク 医師 ここに眠る」
風化した文字は、もう読めないほど薄れている。
でも——その魂は、生き続けていた。
百六十年の時を超えて——
継承者に、受け継がれて。
◇
イグナーツ・ゼンメルワイス。
ルートヴィヒ・ベルク。
二つの名前、二つの人生。
彼の長い戦いは——ようやく、報われようとしていた。
◇
リーゼ・フォン・ハイムダル。
彼女こそが——真の継承者。
先駆者の知識を受け継ぎ、世界を変える者。
◇
「先駆者の悲劇」は——
「継承者の勝利」へと、繋がっていく。
◇
物語は、まだ終わらない。
リーゼの戦いは、これからだ。
でも——彼女は、一人じゃない。
百六十年前の先駆者が、共にいる。
その知識が、その想いが、その魂が——
リーゼと共に、歩み続ける。
◇
ルートヴィヒ・ベルク——
あなたの人生は、無駄じゃなかった。
あなたの知識は、消えなかった。
あなたの願いは、叶えられる。
◇
ありがとう。
そして——おやすみなさい。
◇
先駆者よ、安らかに眠れ。
あなたの夢は——継承者が、必ず実現する。
(外伝 先駆者の悲劇 完)




