第13話 最後の地
執筆を始めてから六年——本は、少しずつ形になっていった。
各地を転々としながら、私は毎晩机に向かった。
王都で見た微生物の姿を、記憶を頼りに図解した。
手洗いの方法、煮沸消毒の手順、感染を防ぐための隔離の考え方——
すべてを、詳細に記録した。
◇
しかし、四十歳を過ぎた頃から、体調が悪くなり始めた。
◇
咳が止まらない。
熱が、慢性的に続く。
体重が、どんどん減っていく。
「……肺の病だな」
医師である私には、自分の病気が分かった。
おそらく、あと数年——いや、もっと短いかもしれない。
◇
放浪を続ける体力は、もうなかった。
最後の地を、探さなければならない。
「どこか……静かな場所で……」
私は、山道を歩いていた。
もう何日、歩いただろう。
足取りは重く、息は荒い。
◇
山奥に、小さな村があった。
家は十軒ほど。
人口は、五十人もいないだろう。
「……ここだ」
私は、直感した。
ここが、私の最後の地になる。
◇
村の入り口で、倒れた。
「おい、大丈夫か!」
村人たちが、駆け寄ってきた。
「旅の者か? ひどい顔色だ」
「……医者です……」
「医者?」
「村に……医者は……いますか……」
「いない。ここは山奥だから……」
「なら……俺を……置いてください……」
◇
村人たちは、私を家に運んでくれた。
質素だが、清潔な部屋。
「しばらく、ここで休むといい」
村長が言った。
「医者がいてくれると、助かる」
「……ありがとうございます」
私は、目を閉じた。
◇
数日後、少し体力が戻った。
村人たちの診察を始めた。
「先生、うちの子が熱を出して……」
「見せてください」
簡単な治療なら、まだできる。
薬草を処方し、手当てを施す。
「ありがとうございます、先生」
「いえ……」
◇
でも、自分の体が衰えていくのは止められなかった。
咳は日に日にひどくなり、血が混じるようになった。
「先生、大丈夫ですか……」
「大丈夫です……少し、休めば……」
嘘だった。
もう、長くないことは分かっていた。
◇
「本を……書かなければ」
私は、残された力を振り絞った。
夜ごと、机に向かう。
震える手で、一文字一文字を記していく。
顕微鏡の製作方法。
微生物の観察・分類法。
感染症の原因と予防法。
手洗い、煮沸消毒、隔離——
そして、外科手術の技術。
帝王切開、虫垂摘出、ヘルニア修復、脳の手術——
王都で学び、実践した全ての術式を図解つきで記録した。
さらに、各種疾患の治療法。
痛風には秋水仙、てんかんには鎮静薬草の組み合わせ——
天然痘の予防接種の方法も書き加えた。
前世と今生で得た、すべての医学知識を。
◇
「いつか、この本を読む人がいる」
私は、そう信じて書き続けた。
「私と同じように、真実を求める人がいる」
「その人のために——すべてを残す」
◇
本の最後に、私は「後書き」を書いた。
著者名は——前世の名前を使うことにした。
「イグナーツ・ゼンメルワイス」
この世界では誰も知らない名前。
しかし、もし私と同じ「記憶」を持つ者がいれば——この名前に、何かを感じるかもしれない。
◇
『この本を読んでいるあなたへ。
私の名は、イグナーツ・ゼンメルワイス。
もうすぐ死ぬ老いぼれの医師です。
この本を書くのに、人生の大半を費やしました。
微生物は存在します。私は見ました。顕微鏡という道具で、この目で見たのです。
丸い粒が鎖のように連なる、小さな生き物。それが母親たちを殺していました。
手を洗えば、防げます。たったそれだけのことで、命が救えます。
誰も信じてくれませんでした。
狂人と呼ばれ、異端と呼ばれ、追われ続けました。
この本も、一度は焼かれました。
それでも書き直しました。あなたのために。
まだ見ぬ、未来の誰かのために。
もしあなたが「これは本当かもしれない」と思ったなら——
どうか、試してみてください。
私の代わりに、命を救ってください。
あなたになら、できると信じています。』
◇
そして——私は、最後に特別なメッセージを書き加えた。
前世の文字で。ラテン文字だ。
この世界の誰にも読めない文字——しかし、もし私と同じ世界から来た者がいれば、読めるはずだ。
『もし、これを読んでいる者がいるなら、あなたも私と同じ運命を辿った者だろう。
私はこの世界で理解されない。手を洗えと説いても、誰も聞き入れない。
いつか、私の知識は失われるかもしれない。
だが、もし同じ世界から来た者がこれを見つけたなら——
どうか、私の遺した知識を受け継ぎ、この世界の人々を救ってほしい。
真実は、いつか必ず認められる。
同じ故郷を持つ友へ。
イグナーツ・ゼンメルワイス』
◇
四十一歳の秋——
本は、完成した。
『微生物学概論——目に見えない生命の世界』
それが、私がつけたタイトルだった。
◇
私は、王都のゲオルグに手紙を送った。
かつてレンズを作ってくれた、ガラス職人。
私の研究を、ずっと信じてくれていた友人。
『ゲオルグへ。
私は、もう長くない。
お前に頼みがある。
この本を——守ってくれないか。
いつか、この価値が分かる人が現れる。
その日まで——頼む。
ルートヴィヒ・ベルク』
◇
一ヶ月後——
ゲオルグが、村を訪ねてきた。
王都から馬車で何日もかけて、この山奥まで来てくれたのだ。
「先生……!」
老いたガラス職人は、私の姿を見て涙を流した。
髪は真っ白になり、顔には深い皺が刻まれていた。
あの頃から、二十年以上が過ぎている。
「こんなに……やつれて……」
「……来てくれたのか、ゲオルグ」
「当たり前だ。手紙を読んで、すぐに出発した」
ゲオルグは、私の傍らに座った。
「……あのレンズを作った日のこと、覚えてるか」
「ああ……」
「『目に見えないものを見たい』——お前は、そう言った」
「……」
「俺の女房みたいな人を救えるかもしれない、と」
ゲオルグの目に、涙が光った。
「お前は、約束を守った。この町で、お産の熱で死ぬ人はいなくなったそうじゃないか」
「……ほんの、少しだけだ」
「少しじゃない」
ゲオルグは、力を込めて言った。
「お前は、俺の女房を救えなかった。でも——他の誰かの女房を、救ったんだ」
◇
私は、本をゲオルグに託した。
「これを……頼む」
「……」
「顕微鏡は教会に奪われた。でも、この本には——すべてが書いてある」
「微生物のことも?」
「ああ。作り方も、観察方法も、全部」
ゲオルグは、震える手で本を受け取った。
「いつか……この本を必要とする人が現れる」
「……」
「その人に——届けてくれ」
◇
ゲオルグは、涙をこらえながら頷いた。
「分かった。必ず、守る」
「……ありがとう」
「礼を言うのは俺の方だ、先生」
ゲオルグは、私の手を強く握った。
「お前のおかげで——俺は、女房の死に意味を見つけられた」
「……」
「この本は、俺の命に代えても守り抜く。子供にも、孫にも——伝える」
「……頼んだぞ」
私は、微笑んだ。
この友がいてくれて、本当に良かった。
◇
その夜、私は星を見上げた。
美しい、満天の星空だった。
「クラウス……マリアさん……ホフマン先生……」
遠くにいる人々、もういない人々を思った。
「俺は……やれることは、やった」
「後は……任せるしかない」
◇
私の人生は——
前世では、四十七年。
今世では、四十一年。
合わせて、八十八年。
「長い人生だった」
私は、微笑んだ。
「でも……悔いはない」
真実を追い求めた。
人を救おうとした。
知識を、残すことができた。
「それで……十分だ」
◇
体が、どんどん衰えていく。
もう、起き上がることもできない。
ゲオルグと村人たちが、交代で看病してくれた。
「先生……」
「大丈夫です……心配しないで……」
私は、穏やかに微笑んだ。
「俺は……幸せです」
◇
最後の夜——
私は、窓の外の星を見つめていた。
美しい、満天の星空。前世で見たブダペストの空とも、王都の空とも違う——でも、同じように美しい星空だった。
ゲオルグが、枕元に座っている。
「先生……」
「ゲオルグ……本を……頼んだぞ……」
「ああ。任せろ。俺の命に代えても、守り抜く」
「……ありがとう……」
◇
意識が、薄れていく。
不思議と、恐怖はなかった。
前世の最期は、暗い独房で、孤独で、絶望の中だった。
でも今は——
友がいる。
知識を託せる者がいる。
そして、いつか——
「継ぐ者が……現れる……」
私の知識を受け継ぎ、世界を変える者が。
「頼んだぞ……未来の……医師たちよ……」
私は、静かに目を閉じた。
◇
窓の外では、星が瞬いていた。
ゲオルグは、動かなくなった友人の手を、そっと布団の中に戻した。
「……先生」
涙が、頬を伝う。
「あんたの知識は、俺が守る。必ず——」
◇
ルートヴィヒ・ベルク。
前世の名は、イグナーツ・ゼンメルワイス。
二つの人生で、同じ真実を追い求めた男。
四十一歳——静かな、穏やかな最期だった。
前世とは違う。
孤独ではなく、絶望でもなく——希望を抱いて、眠りについた。




