第12話 焚書
本を書き始めてから、三年が過ぎた。
◇
私は、夜ごと机に向かった。
「微生物と疾病の関係について」
王都で発見したこと。
顕微鏡で見た微生物の姿。
手洗いの効果を示すデータ。
すべてを、詳細に記録した。
「いつか、誰かが読んでくれる」
その希望だけが、私を支えていた。
◇
三十三歳の秋——
七年間の平穏は、突然終わりを告げた。
「ベルク先生」
町長が、青ざめた顔で訪ねてきた。
「教会から、使者が来ています」
「教会……?」
嫌な予感がした。
エッカート伯爵の保護は、王都の中だけだ。
この辺境の地まで、伯爵の力は及ばない。
「……来たか」
覚悟はしていた。いつかこの日が来ることを。
◇
診療所の前に、黒い僧衣の男たちが立っていた。
「ルートヴィヒ・ベルク」
先頭の男が、冷たい声で言った。
「お前が、異端の書物を書いているという報告があった」
「……」
「家宅捜索を行う。抵抗するな」
◇
男たちは、家の中に踏み込んできた。
机の引き出しを開け、棚を漁り、床下まで調べた。
「これは何だ」
一人が、原稿の束を見つけた。
三年かけて書いた、私の研究書だった。
「待ってくれ——」
「黙れ」
男に突き飛ばされ、私は壁に叩きつけられた。
◇
「『微生物と疾病の関係について』……」
先頭の男が、原稿を読み上げた。
「『目に見えない小さな生き物が、病気を引き起こす』」
「……」
「『神の罰ではなく、自然の法則である』」
男の目が、冷たく光った。
「異端だ」
◇
「違う——」
「黙れ!」
男が、私の顔を殴った。
「お前は、神を冒涜した」
「俺は、人を救いたいだけだ——」
「神が与えた罰を、人間が防げるというのか」
男は、原稿を床に投げ捨てた。
「この書物は、焼却する」
◇
町の広場に、火が焚かれた。
町民たちが、不安そうに見守っている。
「これより、異端の書物を焼却する」
教会の男が、高らかに宣言した。
「神の名において、この邪悪な知識を滅ぼす」
私の原稿が、炎の中に投げ込まれた。
◇
私は、声も出せなかった。
三年間の努力が、燃えていく。
眠れぬ夜を何百と過ごし、一文字一文字書き記した知識が——
炎に舐められ、黒く焦げ、灰になっていく。
微生物の図解。手洗いの手順。消毒の方法。
すべてが、煙となって空に消えていく。
私は、膝から崩れ落ちた。
手が震える。歯が鳴る。
怒りなのか。悲しみなのか。絶望なのか。
自分でも分からなかった。
◇
町長が、私に近づいてきた。
「先生……すみません……」
「……」
「教会には、逆らえないんです……」
町長の目には、涙があった。
「先生のおかげで、この町は救われました。でも——」
「分かっています」
私は、立ち上がった。
「俺がいると、この町に迷惑がかかる」
◇
「先生……」
「出て行きます」
私は、静かに言った。
「今まで、ありがとうございました」
町長は、何も言えずに俯いた。
◇
私は、わずかな荷物をまとめて、ノルドハイムを去った。
七年間暮らした町。
たくさんの命を救った場所。
「さようなら……」
振り返ると、何人かの町民が手を振っていた。
産婆も、涙を流しながら見送ってくれた。
「先生……お元気で……」
◇
それからは、放浪の日々だった。
あてもなく歩き、村々を転々とした。
「医者です。診察しましょうか」
行く先々で、簡単な治療を施した。
風邪の薬を処方し、怪我の手当てをし、出産を手伝った。
お礼は、食事と宿だけでいい。
「ありがとうございます、先生」
「いえ……」
◇
教会の目を避けるため、一つの場所に長く留まらなかった。
数日滞在しては、次の村へ。
名前も、偽名を使った。
「旅の医者です」
それだけで、十分だった。
◇
冬が来た。
寒さは厳しく、食料も乏しかった。
「……」
ある夜、私は雪の中で倒れた。
意識が遠のいていく。
「ああ……このまま、死ぬのか……」
前世と同じだ。
孤独に、誰にも看取られずに——
◇
「おい、大丈夫か!」
声が聞こえた。
誰かが、私を抱き起こしている。
「生きてるぞ! 家に運べ!」
意識が、薄れていった。
◇
目を覚ますと、暖かい部屋にいた。
「気がついたか」
年老いた農夫が、私を見下ろしていた。
「ここは……」
「俺の家だ。雪の中で倒れてるところを見つけた」
「……ありがとうございます」
「礼はいい。それより、腹が減ってるだろう」
農夫は、スープを差し出した。
◇
しばらく、その農家で世話になった。
「あんた、医者だってな」
「……ええ」
「うちの村には、医者がいないんだ。しばらく、いてくれないか」
「でも、俺は——」
「訳ありなんだろ? 分かってる」
農夫は、にやりと笑った。
「ここは山奥だ。教会も滅多に来ない」
◇
その村で、半年を過ごした。
村人たちは、素朴で温かかった。
手洗いのことを教えると、素直に実践してくれた。
「なるほど、清潔にすればいいんだな」
「難しいことは分からんが、先生の言うことなら信じる」
私は、少しだけ——希望を取り戻した。
◇
ある日、クラウスからの手紙が届いた。
どうやって見つけたのか分からないが、旅の商人が届けてくれた。
「ルートヴィヒ。生きていると聞いて安心した」
「お前の研究書が焼かれたことは、俺も聞いた。悔しい」
「でも、諦めるな、友よ」
「知識は、焼いても消えない。お前の頭の中にある」
「いつか——必ず、世界は変わる」
◇
私は、手紙を胸に抱いた。
「クラウス……」
まだ、友がいる。
まだ、諦めてはいけない。
「もう一度……書こう」
焼かれても、また書けばいい。
何度焼かれても、何度でも——
「俺が死ぬまで、書き続ける」
◇
顕微鏡はもうない。
微生物を見せることは、できない。
でも——私の頭の中には、すべてが刻まれている。
あの小さな生き物たちの姿。
球状のもの、棒状のもの、鎖のように連なるもの。
病人の血液に群がっていた、無数の微生物。
手洗い前と後で、劇的に減った数。
「すべて、記録する」
見た者にしか分からない。
でも、いつか——同じように見る者が現れるかもしれない。
その時のために、すべてを書き残す。
◇
三十四歳の春——私は、再び筆を取った。
それから六年間、私は村から村へ移りながら執筆を続けた。
教会の目を避け、静かに、しかし確実に——
知識を、紙に刻み続けた。




