第11話 辺境の医師
二十六歳の冬——ノルドハイムでの生活が始まった。
寒風が吹きすさぶ辺境の町。
王都の喧騒とは程遠い、静かで質素な暮らし。
でも、ここには——教会の監視の目も、権威ある教授たちの嘲笑も、ない。
「やり直せる」
私は、自分に言い聞かせた。
「ここで、もう一度——」
◇
最初の患者は、三日目にやってきた。
「先生、うちの子が熱を出して……」
若い母親が、赤ん坊を抱えて駆け込んできた。
「見せてください」
私は、赤ん坊を診察した。
高熱、咳、鼻水——風邪だった。
「大丈夫です。薬草を煎じて飲ませてください」
「本当ですか……?」
「はい。三日もすれば、良くなります」
◇
三日後、母親が再び訪ねてきた。
「先生! 治りました!」
「良かったですね」
「ありがとうございます……!」
母親は、涙を流して感謝した。
「今まで、隣町まで行かないと診てもらえなくて……」
「これからは、いつでも来てください」
「はい……!」
◇
噂が広まるのは、早かった。
「新しい先生、腕がいいぞ」
「王都で学んだんだって」
「話しやすいし、親切だ」
少しずつ、患者が増えていった。
風邪、怪我、腹痛、頭痛——様々な症状の人々が訪れる。
私は、一人一人丁寧に診察した。
◇
一ヶ月後——
最初の出産があった。
「先生、産婆さんだけじゃ不安で……」
妊婦の夫が、頭を下げた。
「立ち会ってもらえませんか」
「もちろんです」
私は、産婆と一緒に出産に臨んだ。
◇
「まず、手を洗ってください」
私は、産婆に言った。
「手を洗う?」
「はい。石鹸で、丁寧に」
産婆は、不思議そうな顔をしたが、素直に従ってくれた。
「こうですか?」
「はい。指の間も、爪の下も」
◇
出産は、無事に終わった。
元気な男の子が生まれた。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます、先生……!」
夫婦は、涙を流して喜んだ。
そして——一週間後も、母親は元気だった。
産褥熱は、起きなかった。
◇
「先生の言う通り、手を洗ったからかな」
産婆が、不思議そうに言った。
「いつもは、何人かに一人は熱を出すのに」
「そうですか」
「不思議なもんだ」
私は、内心でガッツポーズをした。
ここでも、手洗いは効果がある。
◇
それからも、出産に立ち会うたびに手洗いを指導した。
産婆は、素直に従ってくれた。
王都の権威たちとは違う。
理屈より、結果を信じてくれる。
「先生のやり方だと、熱が出ないんだ」
「不思議だけど、効果があるなら、やらない理由はないね」
◇
半年後——
ノルドハイムでの出産で、産褥熱は一件も起きなかった。
「すごいことだ」
町長が、驚いた顔で言った。
「今まで、十人に一人は熱で死んでいたのに」
「手洗いの効果です」
「手洗い? そんな簡単なことで?」
「はい」
私は、頷いた。
「清潔にすれば、病気は防げます」
◇
しかし——
この成功は、王都には届かない。
辺境の小さな町で、何が起きているか——誰も知らない。
「……」
私は、時々、虚しさを感じた。
ここで何人救っても、世界は変わらない。
王都では、今も母親たちが産褥熱で死んでいる。
「俺一人では……限界がある……」
◇
夜になると、孤独が押し寄せてきた。
クラウスからの手紙は、二ヶ月に一度届く。
「俺は元気だ。お前も元気でやれよ」
短い文面だが、励まされた。
マリアからの便りは、ない。
伯爵家の令嬢が、異端者として追われた男に手紙を送るわけにはいかない。
当然のことだった。
◇
「……」
眠れない夜、私は前世のことを思い出した。
ウィーンでの日々。
同じように孤独に戦い、同じように追われ——
そして、精神を病んで死んだ。
「今度は……違う」
私は、自分に言い聞かせた。
「今度は、仲間がいた。今も、クラウスがいる」
でも——本当に、今度は違うのだろうか。
◇
ある夜、悪夢を見た。
前世の精神病院。
暗い独房。
看守に殴られ、傷を負い——
感染症で死んでいく、自分の姿。
「うわあああ!」
私は、叫んで目を覚ました。
汗びっしょりだった。
◇
「……夢か」
私は、震える手で顔を拭った。
外は、まだ暗い。
窓の外には、星が輝いている。
「大丈夫だ……大丈夫だ……」
私は、自分に言い聞かせた。
「ここは、辺境の町だ。教会の目は届かない」
「俺は、安全だ」
でも、心の奥底では——恐怖が、消えなかった。
◇
三十歳になった。
ノルドハイムでの生活は、四年目に入っていた。
町の人々は、私を信頼してくれている。
産褥熱の死亡率は、ほぼゼロになった。
「ベルク先生がいてくれて、本当に良かった」
「先生のおかげで、うちの娘は無事に出産できた」
感謝の言葉を、たくさんもらった。
◇
でも——
夜、一人で酒を飲む時、どうしても考えてしまう。
この町で何人救っても、王都では今日も母親が死んでいる。
隣の町でも。その隣の町でも。
俺の知識は、俺の手の届く範囲にしか届かない。
「前世の俺は、世界を変えようとした」
失敗した。狂人扱いされ、病院に閉じ込められ、死んだ。
でも、少なくとも——声を上げた。戦った。
窓の外の星を見上げる。
「今の俺は……安全な場所に隠れて、自分だけ満足しているだけじゃないのか」
◇
ある日、クラウスからの手紙が届いた。
いつもより、長い文面だった。
封を開けた瞬間、嫌な予感がした。
「ルートヴィヒ。悲しい知らせがある。ホフマン先生が亡くなった」
「……!」
手紙が、手から滑り落ちた。
◇
ホフマン先生——
村で出会った、老医師。
「お前には、才能がある。いや、才能というより——使命を感じる」
あの言葉が、今も耳に残っている。
医学院への推薦状を書いてくれた。
「世界を変えられるかもしれない。お前には、その可能性がある」
あの時の先生の目は、真剣だった。
私の中に何かを見出し、信じてくれた。
◇
私は、床に落ちた手紙を拾い上げた。
「享年七十五歳。老衰だったそうだ。穏やかな最期だったと聞いている」
「最期まで、お前のことを気にかけていた。『ルートヴィヒは元気か』『あの子は必ず成し遂げる』と——」
文字が、涙で滲んで読めなくなった。
◇
私は、手紙を握りしめた。
「ホフマン先生……」
声が、震えた。
「俺は……まだ、何も成し遂げていません……」
王都を追われ、辺境に逃げ、小さな町で患者を診ているだけ。
世界は、何も変わっていない。
「先生の期待に……応えられていない……」
◇
もう、会えない。
感謝を伝えることも、成果を報告することもできない。
「先生……見守っていてください……」
私は、窓の外の星を見上げた。
「いつか必ず……あなたの信じてくれた道を、歩き続けます」
涙が、止まらなかった。
◇
その夜、私は決意した。
「このままじゃ、いけない」
逃げているだけでは、何も変わらない。
ホフマン先生のためにも——
クラウスのためにも——
マリアのためにも——
そして、前世の自分のためにも——
「俺は、まだ諦めていない」
知識を、残さなければならない。
本を書こう。
顕微鏡がなくても、言葉で伝えることはできる。
「いつか、誰かが読んでくれるかもしれない」
三十歳——新たな決意が、芽生えた。




