第10話 追放
王都を離れる前日——
私は、病院に呼び出された。
◇
「ベルク」
クライン教授が、冷たい目で言った。
「お前を、解雇する」
「……」
「教会から、圧力がかかった。異端の疑いがある者を、雇い続けることはできない」
「分かっています」
私は、静かに答えた。
覚悟はしていた。
「荷物をまとめて、今日中に出て行け」
「……はい」
◇
研究室に戻ると、見知らぬ男たちが待っていた。
「お前の研究資料を、押収する」
「……何?」
「教会の命令だ。異端の道具は、すべて没収する」
男たちは、私の論文、ノート、そして——顕微鏡を持ち去った。
「待ってくれ! それは——」
「抵抗するな」
男の一人が、私を突き飛ばした。
「逆らえば、お前も連行するぞ」
◇
私は、床に座り込んだ。
顕微鏡が——
二年間かけて作った、あの顕微鏡が——
没収された。
「……」
涙が、溢れた。
あれがなければ、微生物を見せることができない。
証拠が、なくなった。
◇
「ルートヴィヒ!」
クラウスが、駆け込んできた。
「大丈夫か!」
「……顕微鏡が……」
「聞いた。くそっ……」
クラウスは、拳を壁に叩きつけた。
「なんて奴らだ……」
「クラウス、お前は大丈夫か」
「俺?」
「俺と関わっていたから、お前も——」
クラウスは、苦笑した。
「……少し、面倒なことにはなった」
◇
「面倒?」
「親父に、こっぴどく叱られた」
クラウスは、肩をすくめた。
「『異端者と付き合うな』『家名に傷がつく』ってな」
「……すまない。俺のせいで——」
「謝るな」
クラウスの声が、少し震えた。
「俺が勝手にやったことだ。後悔なんてしてない」
「……」
「六年間、お前と一緒に研究してきた。あの顕微鏡で微生物を見た時……俺は確信したんだ」
クラウスは、私の肩を強く掴んだ。
「お前は正しい。世界の方が間違ってる」
「クラウス……」
「だから、諦めるな。俺の分まで——戦い続けてくれ」
◇
私たちは、しばらく無言で立っていた。
言葉にならない思いが、胸の中で渦巻いていた。
医学院で出会ってから六年。
貴族の三男坊と、農家の倅。
身分も育ちも違う二人が、同じ夢を追いかけてきた。
「……もし」
私は、声を絞り出した。
「もし俺たちが、もっと力を持っていたら——」
「言うな」
クラウスは、首を横に振った。
「『もし』を言い出したら、きりがない」
「……」
「俺たちは、やれることをやった。それでいいんだ」
◇
「でも、これからは——」
「ああ、表立っては会えなくなるだろうな」
クラウスは、悲しそうに、でも優しく笑った。
「でも、友達だ。それだけは——死んでも変わらない」
「クラウス……」
「手紙を書く。返事は、仮名でいい。届くのに時間がかかっても、必ず読む」
クラウスは、私に小さな紙片を渡した。
「これが、俺の実家の住所だ。何があっても——連絡しろ」
私は、その紙片を大切に握りしめた。
涙が、頬を伝った。
「……ありがとう。お前に会えて、本当に良かった」
「馬鹿。泣くなよ」
クラウスも、目を赤くしていた。
「また会える。必ず」
私たちは、固く握手を交わした。
それが、クラウスとの最後の握手になるとは——この時は、知らなかった。
◇
マリアにも、会いに行った。
エッカート伯爵邸の応接室。
いつも研究の報告をしていた、馴染みの部屋だった。
「ベルクさん……」
マリアは、涙を流していた。
いつも凛としていた令嬢の顔が、悲しみに歪んでいる。
「ごめんなさい……私がもっと力があれば……父にもっと頼めば……」
「君のせいじゃない」
「でも……!」
マリアは、声を上げた。
「あなたは正しいことをしていただけなのに……なぜ、こんな目に……」
「……」
私は、何も言えなかった。
マリアの涙を見ると、胸が締め付けられる。
◇
「マリアさん」
私は、静かに言った。
「君のおかげで、ここまで来られた」
「……」
「顕微鏡を作れたのも、微生物を発見できたのも——すべて君の支援があったからだ」
マリアは、顔を上げた。
「あの発見は、消えない。教会が顕微鏡を壊しても、論文を焼いても——」
私は、自分の頭を指差した。
「ここには、すべて残っている」
「……」
「いつか、この知識を世に出す。君が支援してくれた研究を、無駄にはしない」
◇
マリアは、涙を拭いながら、少し微笑んだ。
「ベルクさん……あなたは、本当に強い人ですね」
「強くなんかない。何度も心が折れそうになった」
「でも、折れなかった」
マリアは、私の手を両手で握った。
その手は、温かかった。
「いつか——必ず、あなたの正しさが証明されます」
「……」
「世界は、ゆっくりと変わっていく。今は受け入れられなくても——」
マリアの青い目が、真っ直ぐに私を見つめた。
「百年後、二百年後——あなたの名前は、歴史に刻まれる」
「そんな大げさな……」
「大げさじゃありません」
マリアは、力を込めて言った。
「私は、あなたの研究を見てきました。あの微生物を、この目で見ました」
「……」
「だから、確信しているんです。真実は、いつか必ず——認められると」
◇
私は、涙が止まらなかった。
「ありがとう……マリアさん……」
「お元気で」
マリアも、涙を流していた。
「どうか——生きてください。あなたの知識を、次の世代に伝えるために」
「……ああ。約束する」
私は、マリアの手を離した。
この手の温もりを、一生忘れないだろう。
「君も、どうか幸せに」
「……はい」
それが、マリアとの最後の言葉になった。
後から聞いた話では、マリアはその後、別の貴族と結婚したという。
彼女が幸せであることを、私は心から願った。
◇
翌朝——
私は、王都を発った。
持ち物は、わずかな衣服と、少しの金だけ。
顕微鏡も、論文も、すべて失った。
「……」
馬車の窓から、王都の城壁が遠ざかっていく。
あそこで、六年間を過ごした。
希望を抱いて入学し、研究を重ね、仲間を得た。
そして——すべてを失った。
◇
「辺境か……」
エッカート伯爵が紹介してくれたのは、王国の北端にある小さな町だった。
王都から、馬車で五日の距離。
寒く、貧しい土地。
しかし、教会の目は届きにくい。
「そこで、やり直す」
私は、自分に言い聞かせた。
◇
馬車が、街道を進んでいく。
風景は、徐々に変わっていった。
豊かな平野から、荒れた丘陵へ。
緑の森から、灰色の岩山へ。
「本当に、遠くまで来たな……」
私は、窓の外を眺めた。
◇
五日目の夕方——
馬車は、小さな町に到着した。
「ここが、ノルドハイムか……」
石造りの家が並ぶ、質素な町。
人口は、千人ほどだろうか。
寒風が吹き付け、人々は厚い外套を纏っている。
「よく来たな、ベルク先生」
町長が、出迎えてくれた。
「エッカート伯爵から、話は聞いている」
「お世話になります」
私は、深く頭を下げた。
◇
「うちの町には、医者が一人もいなくてな」
町長が言った。
「隣町まで行かないと、診てもらえない」
「そうですか」
「あんたが来てくれて、助かる」
町長は、にこやかに笑った。
「難しい理屈は分からんが、医者がいるだけでありがたい」
◇
私に与えられたのは、古い家だった。
一階が診療所、二階が住居になっている。
狭いが、清潔だった。
「ここで、やり直す」
私は、荷物を置いた。
「顕微鏡は失ったが、知識は残っている」
手洗いの重要性。
消毒の方法。
微生物の存在。
すべて、私の頭の中にある。
◇
「まずは、信頼を得ることだ」
私は、決意した。
王都では、権威と教会に潰された。
でも、ここは辺境の小さな町。
「素朴な人々に、真実を伝えていこう」
一人ずつ、一人ずつ——地道に。
◇
その夜、私は星を見上げた。
王都の空よりも、星が多く見える。
寒いが、静かな夜だった。
「クラウス……マリアさん……」
遠くにいる友人たちを思った。
「俺は、諦めない」
私は、拳を握りしめた。
「いつか必ず——この真実を、世界に広める」
二十六歳——辺境での新しい生活が、始まった。




