第9話 教会の影
二十六歳の秋——病院で働き始めて二年目のことだった。
私の元に、予期せぬ訪問者が現れた。
◇
「ルートヴィヒ・ベルク殿」
病院の廊下で、見知らぬ男に呼び止められた。
黒い僧衣を纏った、厳格な顔つきの中年男性。
「何でしょうか」
「私は、教会の審問官だ」
男は、冷たい目で私を見た。
「お前の研究について、話を聞きたい」
◇
審問官——
その言葉に、私は血の気が引いた。
この世界では、教会が強大な権力を持っている。
異端と見なされれば、処刑されることもある。
「……何の話でしょうか」
「『目に見えない生き物が病気を起こす』——そう主張しているそうだな」
「……」
「その生き物は、何だ? 悪魔か?」
◇
私は、慎重に答えた。
「悪魔ではありません。ただの——小さな生き物です」
「小さな生き物?」
「はい。顕微鏡という道具で、見ることができます」
「顕微鏡?」
審問官は、眉をひそめた。
「見せろ」
◇
私は、審問官を研究室に案内した。
顕微鏡を準備し、水滴を観察させる。
「覗いてください」
審問官は、しばらく顕微鏡を覗き込んでいた。
「……確かに、何かが動いている」
「これが、私の言う生き物です」
「……」
審問官は、顔を上げた。
「これは、神が創られたものか?」
◇
難しい質問だった。
「はい」
私は、頷いた。
「神はすべてを創られました。この生き物も、その一部です」
審問官は、しばらく黙って顕微鏡を見つめていた。
「面白い」
意外な言葉だった。
「だが、問題がある」
審問官の目が、鋭くなった。
「もしこの生き物が病気を起こすなら——神が病を創ったことになる。そして、お前の言う『手洗い』で病を防げるなら——」
審問官は、一歩近づいた。
「人間が、神の定めた運命を変えられることになる」
私は、言葉を失った。
「病は、罪に対する罰だ。神の御業だ」
審問官は、静かだが冷たい声で言った。
「お前は、神の御業を——小さな虫のせいにしようとしている」
◇
「そうではありません」
私は、必死に弁明した。
「私は、神を否定していません。神が創られた世界の仕組みを、理解しようとしているだけです」
「理解?」
審問官の眉が、わずかに動いた。
「では聞こう。雨はなぜ降る?」
「それは……雲から水が……」
「違う。神が降らせるのだ」
審問官は、一歩踏み出した。
「雷はなぜ落ちる? 神が落とすのだ。病はなぜ起こる? 神が与えるのだ」
「しかし、手洗いで防げるという事実が——」
「事実?」
審問官は、冷たく笑った。
「お前の言う事実とは、神の意志を超えられるという傲慢な思い込みではないのか」
◇
私は、連行された。
教会の審問所——暗い石造りの建物。
独房に入れられ、三日間、放置された。
食事は、パンと水だけ。
「……」
私は、壁に寄りかかって考えた。
前世では、こんな目には遭わなかった。
でも、この世界では——教会が、科学を弾圧している。
「まずい……」
最悪の場合、火刑になるかもしれない。
◇
四日目——
審問が始まった。
薄暗い部屋。
三人の審問官が、高い席に座っている。
私は、その前に立たされた。
「ルートヴィヒ・ベルク」
中央の審問官が、厳かに言った。
「お前は、異端の疑いで審問を受ける」
「……はい」
「神の御業を否定したか」
「否定していません」
「しかし、病気の原因は神の罰ではないと主張したな」
「……」
私は、言葉に詰まった。
◇
「答えろ」
「私は……病気を防ぐ方法を、見つけただけです」
「神が与えた罰を、人間が防げるというのか」
「罰ではなく……自然の法則です」
「自然の法則?」
審問官が、眉をひそめた。
「神が創られた世界に、神の意志以外の法則があるというのか」
「いえ、それも神の——」
「矛盾している」
審問官は、冷たく言い放った。
「お前の言うことは、支離滅裂だ」
◇
審問は、何時間も続いた。
同じ質問が、何度も繰り返される。
「神を信じるか」
「信じます」
「では、なぜ神の御業を否定する」
「否定していません」
「しかし、お前の主張は——」
堂々巡りだった。
私の頭は、混乱していた。
◇
その時——
扉が開いた。
「失礼する」
入ってきたのは、立派な身なりの老紳士だった。
「エッカート伯爵……」
審問官が、驚いた顔をした。
「なぜ、ここに」
「この若者は、私の庇護下にある」
マリアの父——エッカート伯爵だった。
◇
「伯爵、この者は異端の疑いで——」
「異端? 馬鹿馬鹿しい」
伯爵は、鼻で笑った。
「この若者は、病気を防ぐ方法を研究しているだけだ」
「しかし、神の御業を——」
「神の御業を、人間が理解しようとすることが罪か?」
伯爵は、審問官を睨みつけた。
「ならば、医学そのものが罪になる」
「……」
「この若者を、今すぐ解放しろ」
◇
審問官たちは、顔を見合わせた。
エッカート伯爵は、王国でも有力な貴族だ。
敵に回すのは、得策ではない。
「……分かりました」
中央の審問官が、渋々言った。
「今回は、警告に留めます」
「警告?」
「この若者に伝えろ」
審問官は、私を睨みつけた。
「二度と、神の御業を疑うような発言をするな。次は、容赦しない」
◇
私は、解放された。
教会の外に出ると、マリアが待っていた。
「ベルクさん……!」
「マリアさん……」
「大丈夫でしたか……?」
私は、力なく笑った。
「……何とか」
◇
「すみません」
マリアが、泣きそうな顔で言った。
「私のせいです。研究を支援したから、目をつけられて……」
「違う。君のせいじゃない」
「でも——」
「君と……伯爵様のおかげで、助かった」
私は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
◇
その夜、クラウスが見舞いに来た。
「大変だったな」
「ああ……」
「教会に目をつけられるとは、思わなかった」
「俺も、想定外だった」
私は、ため息をついた。
「この世界では、科学は——神に挑戦するものと見なされる」
「……」
「前世では、教会の力は弱まっていた。でも、ここでは——」
私は、拳を握りしめた。
「敵が、多すぎる」
◇
「諦めるのか?」
クラウスが聞いた。
「……」
「ルートヴィヒ」
「諦めない」
私は、顔を上げた。
「でも、方法を変えなければならない」
「方法?」
「目立たずに、静かに広める。教会の目に触れないように」
私は、窓の外を見た。
「時間はかかる。でも——いつか、必ず」
◇
エッカート伯爵が、私を呼び出した。
「ベルク君」
「はい」
「しばらく、王都を離れた方がいい」
伯爵は、真剣な目で言った。
「教会の目が、お前を見張っている」
「……」
「地方の病院を紹介しよう。そこで、静かに研究を続けろ」
「伯爵様……」
「いつか、お前の研究が認められる日が来る。それまで——生き延びろ」
私は、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
◇
二十六歳の冬——
私は、王都を離れることを決意した。
教会の目を逃れ、地方で静かに研究を続ける。
それが、今の私にできる最善の選択だった。
「いつか、必ず——」
私は、窓の外を見つめた。
「この真実を、世界に広める」
その決意を胸に、私は旅立ちの準備を始めた。




