第8話 小さな勝利
二十四歳の夏——教授たちに否定されてから、一ヶ月が過ぎた。
その間、私は眠れない夜を何度も過ごした。
前世の記憶が蘇る。同じように拒絶され、同じように孤立していった日々。
「また、同じことを繰り返すのか……」
何度も自問した。でも、答えは出なかった。
◇
ある朝、クラウスが部屋を訪ねてきた。
「おい、飯は食ってるか」
「……少しは」
「嘘つけ。顔色が酷いぞ」
クラウスは、強引に私を外に連れ出した。
市場を歩き、屋台で肉料理を食べさせられた。
「いいか、ルートヴィヒ」
クラウスは、真剣な目で言った。
「お前が潰れたら、誰が真実を広めるんだ」
「……」
「俺は医学のことは分からん。でも、お前が正しいと思ってることは分かる」
「……ありがとう」
「だから、生き延びろ。方法を変えても、諦めるな」
◇
その日から、私は別の方法を考え始めた。
◇
「上から変えられないなら、下から変えればいい」
クラウスの言葉が、頭に残っていた。
権威ある教授たちは、私の話を聞かない。
ならば——現場で結果を出すしかない。
「まず、自分の担当する患者から」
私は、決意した。
◇
医学院を卒業した私は、王都中央病院の産科に勤務していた。
平民出身の若い医師——立場は低い。
しかし、それでも担当する患者はいる。
「この人たちだけでも、守る」
私は、自分なりの方法を実践し始めた。
◇
まず、手洗いを徹底した。
患者に触れる前、必ず石鹸で手を洗う。
特に、解剖実習の後は念入りに。
同僚たちは、不思議そうに見ていた。
「ベルク、何をそんなに手を洗ってるんだ?」
「……清潔にしているだけです」
「変な奴だな」
笑われても、気にしなかった。
◇
次に、器具の消毒を始めた。
メス、鉗子、糸——すべてを煮沸消毒する。
「そんな手間をかけて、何になる」
先輩医師が、呆れた顔で言った。
「昔からこのやり方でやってきたんだ。変える必要はない」
「でも——」
「口答えするな。若造が」
私は、黙って消毒を続けた。
◇
一ヶ月後——
奇跡が起きた。
私が担当した患者は、一人も産褥熱にならなかった。
「……」
同じ病棟の、他の医師が担当した患者は——五人中、二人が熱を出した。
その差は、明らかだった。
◇
「偶然だ」
先輩医師は、そう言った。
「たまたま、お前の患者が丈夫だっただけだ」
「でも、二ヶ月連続です」
「偶然は続くものだ」
「三ヶ月も?」
「……」
先輩は、黙り込んだ。
◇
噂が、広まり始めた。
「ベルク先生の患者は、熱を出さない」
「何か、特別なことをしているらしい」
「手を洗ってるんだって。しつこいくらいに」
最初は、笑い話だった。
でも、結果が続くと——笑えなくなってきた。
◇
ある日、看護師の一人が、私に話しかけてきた。
「ベルク先生」
「何だ、エルザ」
エルザは、ベテランの看護師だった。
三十年以上、この病棟で働いている。
「あの……手洗いのこと、教えていただけませんか」
「……え?」
「私も、やってみたいんです」
◇
私は、驚いた。
「なぜ?」
「先生の患者さんは、熱を出さない」
エルザは、真剣な目で言った。
「私、三十年もここで働いてきました。たくさんの母親が、死んでいくのを見てきました」
「……」
「もし、手洗いで助かるなら——やらない理由はありません」
私は、涙が出そうになった。
「……ありがとう」
◇
エルザに、手洗いの方法を教えた。
「まず、手首まで水で濡らす。そして石鹸をたっぷり取って——」
私は、実際にやって見せた。
「手のひらを合わせて擦る。次に、手の甲も。指を組んで、指の間も丁寧に」
「こうですか?」
「そう。爪の下は特に大事だ。爪を立てて、反対の手のひらで掻くように」
私は、エルザの手を取って確認した。
「最後に、手首をしっかり洗って、流水で十分にすすぐ。石鹸が残らないように」
「思ったより、長く洗うんですね」
「ああ。心の中で三十数えるくらい」
エルザは、真剣な目で頷いた。
「特に大事なのは、患者に触れる前と後。そして、解剖や汚物を扱った後だ」
「分かりました。他の看護師にも、教えていいですか?」
「もちろんだ。一人でも多く、広めてくれ」
◇
少しずつ、仲間が増えていった。
エルザが教えた看護師たちが、手洗いを始めた。
彼女たちが担当する患者も、熱を出す率が下がった。
「本当だ……」
「手洗いで、変わるんだ……」
現場の人々が、実感し始めていた。
◇
ある日、患者の夫が、私のところに来た。
「ベルク先生……」
中年の男性だった。目には、涙が浮かんでいる。
「妻が……無事に退院できました……」
「そうですか。良かった」
「先生のおかげです」
男性は、深く頭を下げた。
「隣の病室の奥さんは、熱を出して亡くなりました。でも、うちの妻は——」
「……」
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
◇
私は、胸が熱くなった。
これだ。
この瞬間のために、研究を続けてきた。
前世でも、同じだった。
患者が助かる。家族が喜ぶ。
それが、私の——医師としての喜び。
◇
しかし、上層部は違う見方をしていた。
「ベルク」
クライン教授が、私を呼び出した。
「お前、何をしている」
「……手洗いを、しています」
「それは聞いた。看護師にまで広めているそうだな」
教授の目が、鋭くなった。
「やめろ」
◇
「なぜですか」
「お前のやっていることは、病院の秩序を乱している」
「でも、結果が——」
「結果? 偶然だ」
教授は、冷たく言い放った。
「たまたま運が良かっただけだ。科学的な根拠はない」
「顕微鏡で——」
「あの玩具の話はするな」
教授は、机を叩いた。
「これ以上騒ぐなら、お前をこの病院から追い出す」
◇
「……」
私は、黙り込んだ。
ここを追い出されたら、患者を守れなくなる。
研究も、続けられなくなる。
「分かりました」
私は、頭を下げた。
「……目立たないようにします」
「そうしろ」
教授は、冷たく言った。
「お前は、まだ若い。余計なことをするな」
◇
部屋を出た私は、拳を握りしめた。
悔しい。
結果が出ているのに、認められない。
権威は——事実より、自分のプライドを優先する。
「でも……諦めない」
私は、心に誓った。
表立って動けないなら、静かに広める。
一人ずつ、一人ずつ——仲間を増やしていく。
◇
その夜、エルザが私のところに来た。
「先生、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ」
「教授に、怒られたんですか?」
「……少しね」
エルザは、悲しそうな顔をした。
「私たち、手洗いをやめた方がいいですか?」
「いや」
私は、首を振った。
「続けてくれ。ただし、目立たないように」
「……分かりました」
エルザは、頷いた。
「先生を、信じています」
◇
小さな勝利——
それは、まだ始まりに過ぎなかった。
権威には認められない。
でも、現場の人々は——少しずつ、信じ始めている。
「いつか……必ず……」
私は、星を見上げながら誓った。
「この真実を、世界に広める」
二十五歳——静かな戦いは、続いていた。




