第7話 権威の壁
二十四歳の春——私はクライン教授の部屋にいた。
教授は、顕微鏡を覗き込んだ。
◇
私は、固唾を呑んで見守った。
ガラス板の上には、お産の熱で亡くなった患者の血液がある。
あの球状の生き物が、無数に見えているはずだ。
「……」
教授は、長い時間、顕微鏡を覗いていた。
そして——ゆっくりと顔を上げた。
◇
「確かに、何かが見える」
教授が言った。
私の心臓が、高鳴った。
「見えましたか! あれが——」
「しかし」
教授は、冷たい目で私を見た。
「これが病気の原因だという証拠は、どこにある」
「え……」
「見えるのは認めよう。だが、それが病気を起こすという証拠はない」
◇
私は、必死に説明した。
「健康な人の血液には、ほとんど見えません。病人にだけ多いんです」
「それは、病気の結果かもしれん」
「結果……?」
「病気になったから、この生き物が増えた。原因と結果が逆かもしれん」
「でも、手洗いをすると——」
「手洗いは、確かに効果があった。それは認める」
教授は、論文を机に置いた。
「しかし、因果関係は証明されていない」
◇
「実際に見えるじゃないですか!」
私は、声を荒げた。
「この生き物が存在することは、確かです!」
「存在することと、病気の原因であることは、別の話だ」
教授の声は、冷静だった。
「お前の仮説は興味深い。だが、科学的な証明がない」
「……」
「学会で発表するには、まだ早い」
◇
「でも、手洗いを広めれば——」
「広める?」
教授は、眉をひそめた。
「お前は、医師たちに手洗いを強制するつもりか」
「強制では——」
「『医師が病気を移している』。そう言っているのと同じだ」
教授の目が、鋭くなった。
「医師の名誉を傷つける発言は、許されん」
「名誉より、命の方が——」
「黙れ!」
教授が、机を叩いた。
「お前は、まだ若い。分かっていない」
「……」
「医学は、秩序の上に成り立っている。その秩序を乱す者は、排除される」
◇
私は、拳を握りしめた。
何も変わっていない。
「教授……お願いです……」
「帰れ」
教授は、書類に目を戻した。
「この話は、これで終わりだ」
◇
部屋を出た私は、壁に寄りかかった。
体が震えていた。
怒りか。
悲しみか。
それとも——絶望か。
「前世と……同じだ……」
証拠を見せても、信じてもらえない。
いや、見ても——信じたくないのだ。
◇
「ルートヴィヒ」
振り向くと、クラウスが立っていた。
「駄目だったか」
「……ああ」
「そうか……」
クラウスは、私の隣に立った。
「でも、諦めるなよ」
「……」
「一人が駄目でも、他の人がいる」
「他の教授も、同じだろう」
私は、力なく言った。
「権威を否定されるのを、誰も好まない」
◇
「じゃあ、権威じゃない人に見せればいい」
クラウスが言った。
「若い医師。学生。看護師。一般の人々」
「……」
「俺は見た。あの生き物を。確かに存在した」
クラウスは、私の肩を叩いた。
「百人が否定しても、一人が信じれば、その一人から広がる」
◇
数日後——
私は、他の教授たちにも話を聞いてもらおうとした。
解剖学のヴェルナー教授は、顕微鏡を覗いた後、首を振った。
「確かに何かはいる。だが、それが病気を起こすとは限らん。死体にはウジも湧くが、ウジが死因ではあるまい」
内科学のミュラー教授は、顕微鏡に触れることすら拒んだ。
「体液の乱れが病を生む。それが二千年来の真理だ。目に見えぬ小さな虫が原因だと? 笑止千万」
そして、外科学のシュミット教授——
◇
中でも、シュミット教授の言葉が最も心に刺さった。
「農家の出身が、何を偉そうに」
「出身は関係ありません。真実は——」
「関係ある」
教授は、冷たく嘲笑った。
「お前には、医学界での立場がない。貴族の支援を受けているそうだが——その金で作った玩具で、我々を説得できると思うか」
「玩具では——」
「いい加減にしろ」
教授は、顕微鏡を一瞥もせずに言い放った。
「二度と私の前に現れるな」
◇
ホフマン先生の忠告が、頭をよぎった。
『権威ある者たちは、簡単には認めないだろう』
その通りだった。
彼らは、真実を見ようとすらしない。
◇
その夜——
私は、研究室で一人、うずくまっていた。
頭を抱え、膝を抱え、じっと床を見つめた。
証拠がある。
目で見える証拠がある。
なのに、誰も見ようとしない。誰も信じない。
「前世と……同じだ……」
私は、頭を抱えた。
◇
「ベルクさん」
扉が開いた。
マリアが、立っていた。
「クラウスから聞きました。大変だったそうですね」
「……はい」
「落ち込んでいますか?」
「……少し」
マリアは、静かに部屋に入ってきた。
◇
「私の友人は、お産の熱で死にました」
マリアが言った。
「彼女は、まだ二十歳でした」
「……」
「赤ん坊も、一緒に死にました」
マリアの声が、震えた。
「あの時、もし手洗いが広まっていたら——彼女は、死ななかったかもしれない」
「……」
「だから、私はあなたを支援しています」
◇
マリアは、私の目を見つめた。
「諦めないでください」
「でも、誰も——」
「今は、そうかもしれません」
マリアは、静かに言った。
「でも、真実は——いつか、必ず認められます」
「……」
「あなたの研究は、正しい。私は、そう信じています」
私は、涙が溢れそうになった。
「ありがとうございます……」
◇
クラウスも、部屋に入ってきた。
「なんだ、二人で深刻な顔して」
「……クラウス」
「諦めるなよ、ルートヴィヒ」
クラウスは、にっこり笑った。
「お前には、俺たちがいる」
「……」
「一人じゃない。それだけで——心強いだろ?」
私は、頷いた。
「……ああ」
クラウスは、にっこり笑った。
「とにかく、諦めるな。方法は、必ずある」
◇
その夜——
私は、窓の外を見つめた。
クラウスがいる。マリアがいる。
一人じゃない。それだけで、前に進める。
「別の方法を探す」
権威が駄目なら、現場から変えていく。
二十四歳——戦いは、まだ始まったばかりだった。




