第5話 二年間の苦闘
二十一歳——より高い倍率を求めて、私の挑戦は続いた。
◇
医学院三年生になった私は、授業の合間を縫って研究を続けた。
レンズの曲率を変え、組み合わせを試し、何度も失敗した。
「駄目だ……まだぼやける」
試作品を覗き込むたびに、落胆した。
水滴の中の「何か」は見えるが、形がはっきりしない。
もっと精密なレンズが必要だ。
しかし、精密なレンズを作るには金がかかる。
◇
クラウスの援助にも、限界があった。
「悪い、ルートヴィヒ。今月は無理だ」
「……分かってる」
「父上に怒られたんだ。金の使い方が荒いって」
クラウスは、申し訳なさそうに言った。
「俺も、貴族とは言え三男坊だからな」
「いいんだ。十分助けてもらった」
◇
私は、自分で金を稼ぐことにした。
夜間の港での荷運び。
休日の市場での雑用。
わずかな金を稼いでは、レンズの材料費に充てた。
「お前、痩せたな」
クラウスが、心配そうに言った。
「大丈夫だ」
「無理するなよ」
「……」
無理をしなければ、前に進めない。
◇
二十一歳の夏——
私は、体を壊した。
高熱を出して、三日間寝込んだ。
「馬鹿だな、お前は」
クラウスが、見舞いに来てくれた。
「だから、無理するなって言っただろ」
「……すまない」
「すまないじゃない。死んだらどうするんだ」
クラウスは、本気で怒っていた。
「お前が倒れたら、誰が研究を続けるんだ」
◇
回復してから、私は考え直した。
このままでは、体が持たない。
前世も、無理を重ねて壊れていった。
同じ過ちを、繰り返してはいけない。
「助けを求めよう」
私は、決意した。
一人で全てを背負う必要はない。
◇
「パトロンを探せばいい」
クラウスが言った。
「研究に投資してくれる貴族は、結構いるぞ」
「でも、俺は平民だ。誰が相手にしてくれる」
「心当たりがある」
クラウスは、にやりと笑った。
「俺の知り合いに、変わり者の令嬢がいるんだ」
◇
マリア・フォン・エッカート。
伯爵家の一人娘で、学問に興味を持つ珍しい貴族令嬢だった。
「初めまして、ベルクさん」
マリアは、知的な笑顔で言った。
年齢は私と同じくらいか。
金髪に青い目。美しい令嬢だが、その目には好奇心の光があった。
「クラウスから聞きました。面白い研究をしているそうですね」
「……はい」
「目に見えないものを、見えるようにする」
マリアは、興味深そうに言った。
「具体的には、何を見たいのですか?」
◇
私は、慎重に言葉を選んだ。
「病気の原因を」
「病気の原因?」
「お産の熱という病気があります」
「ああ、出産後に母親が死ぬやつですね」
マリアは、頷いた。
「友人が、それで亡くなりました」
「……」
「原因は何なのですか?」
「目に見えない、小さな生き物です」
私は、思い切って言った。
「それを見るための道具を作っています」
◇
マリアは、しばらく黙っていた。
そして——笑った。
「面白い」
「え?」
「本気ですか? 目に見えない生き物がいると」
「本気です」
「証拠は?」
「……まだ、ありません。だから、見えるようにしたいんです」
マリアは、私の目をじっと見つめた。
「あなたの目、本気ですね」
「……」
「いいでしょう。支援します」
◇
マリアの支援で、研究は一気に進んだ。
最高品質のガラス。
熟練の職人。
専用の研究部屋。
「これで、思う存分研究できますね」
マリアが、嬉しそうに言った。
「ありがとうございます……本当に……」
「お礼は結果で見せてください」
「はい」
私は、深く頭を下げた。
◇
その頃、ホフマン先生から手紙が届いた。
『ルートヴィヒへ。
研究が進んでいると聞いて、嬉しく思う。
「目に見えないものを見る」——お前が村で言った言葉を、私は忘れていない。
私も若い頃、同じことを考えた。しかし、方法が見つからなかった。
お前なら、きっと見つけられる。
体に気をつけて、研究を続けてくれ。
吉報を待っている。
ホフマン』
私は、手紙を大切にしまった。
先生の期待に、応えなければならない。
◇
二十二歳——
私は、レンズの組み合わせに関する重要な発見をした。
「対物レンズと接眼レンズ……」
対象物に近いレンズで像を作り、目に近いレンズでその像を拡大する。
二段階の拡大で、倍率は飛躍的に上がる。
「これだ……!」
私は、興奮して叫んだ。
◇
新しい設計図を描いた。
筒の両端に、二種類のレンズを固定する。
下端には短焦点の凸レンズ(対物レンズ)。
上端には長焦点の凸レンズ(接眼レンズ)。
観察物はガラス板の上に置き、下から光を当てる。
「これなら……百倍以上の拡大ができるはず」
◇
ガラス職人のゲオルグに、新しいレンズを依頼した。
「また難しい注文だな」
「今度こそ、最高のものを」
「金はあるんだろうな」
「あります」
マリアの支援のおかげで、金の心配はなくなった。
「よし、やってやろう」
ゲオルグは、腕まくりをした。
「お前の情熱には、負けたよ」
◇
三ヶ月後——
新しいレンズが完成した。
今までで、最も精密なレンズだった。
「どうだ」
ゲオルグが、自慢げに言った。
「我ながら、傑作だと思うぞ」
「……ありがとうございます」
私は、震える手でレンズを受け取った。
◇
その夜、私は顕微鏡を組み立てた。
真鍮の筒に、まず対物レンズを固定する。蝋で隙間を埋め、光が漏れないようにした。
次に、接眼レンズ。こちらは筒の上端に。
二つのレンズの距離を調整できるよう、筒を二重構造にした。内筒を上下させることで、焦点を合わせられる。
台座には、薄いガラス板を載せる窓を切った。
その下には、角度を変えられる小さな鏡。窓から日光や蝋燭の光を反射させ、観察物を下から照らす仕組みだ。
「できた……」
粗末だが、確かに——顕微鏡だ。
前世では見ることしかできなかった道具を、自分の手で、一から作り上げた。
◇
クラウスとマリアを呼んだ。
「見てくれ」
私は、ガラス板の上に水滴を一滴垂らした。
池から汲んできた、濁った水だ。
そして、顕微鏡を覗き込んだ。
◇
「……見える……!」
私は、声を震わせた。
水滴の中に、無数の生き物が蠢いている。
楕円形のもの。
棒状のもの。
ひらひら動くもの。
「いた……本当にいた……!」
私は、涙が溢れた。
◇
「どれ、俺にも見せろ」
クラウスが、顕微鏡を覗き込んだ。
「……うわ、何だこれ」
「見えるか? 動いてるだろ?」
「ああ……動いてる……気持ち悪いけど、すごいな」
マリアも、覗き込んだ。
「これが……目に見えない生き物……」
「はい。これが、病気の原因かもしれないんです」
◇
二十三歳——
二年間の苦闘の末、私は顕微鏡を完成させた。
まだ粗末な道具だが、確かに——目に見えないものを見ることができる。
「次は、病人の血液を観察する」
私は、決意した。
「そして、手洗いの効果を証明する」
前世で果たせなかった夢が——ついに、手の届くところまで来た。




