第4話 レンズの探求
二十歳——医学院二年生になった私は、解剖学と病理学に没頭した。
◇
「人体の構造を知ることは、医学の基本だ」
解剖学の教授が、厳かに言った。
「内臓の位置、血管の走行、神経の分布——すべてを頭に入れろ」
私は、前世の知識を復習するような気持ちで授業を受けた。
解剖台の上に横たわる遺体。
メスで皮膚を切り開き、筋肉を剥がし、内臓を露出させる。
「美しい……」
人体の精密さに、私は改めて感動した。
◇
しかし、同時に——不安も感じていた。
解剖実習の後、手を洗う学生はほとんどいない。
そのまま、次の患者の診察に行く。
前世のウィーン総合病院と、同じ光景だ。
「死体から、何かが移る……」
私は、その仮説を確信していた。
でも、証明できない。
目に見えないからだ。
◇
「やはり、見えるようにするしかない」
私は、図書館で光学の文献を読み漁った。
レンズの性質、光の屈折、拡大の原理——
しかし、この世界の光学は発展途上だった。
虫眼鏡程度の知識しかない。
「自分で研究するしかない……」
◇
ある日、私はクラウスを誘って、職人街に向かった。
王都の西区——職人たちが集まる地区だ。
「職人街? 何するんだ?」
「レンズを作ってもらうんだ」
「レンズって、虫眼鏡か?」
「もっと精巧なやつ」
クラウスは、首を傾げながらついてきた。
◇
職人街は、煙と熱気に満ちていた。
炉で溶かされたガラスが、職人の手で様々な形に加工されていく。
「美しいな……」
私は、その光景に見入った。
「おい、ルートヴィヒ。この店でいいのか?」
クラウスが、一軒の工房を指差した。
看板には「ゲオルグ・ガラス工房」と書かれている。
「ここだ」
私は、工房の扉を開けた。
◇
中には、年老いた職人がいた。
白髪交じりの髪、日焼けした肌、ガラス焼けで少し赤くなった目。
四十年以上ガラスを扱ってきた——そんな風格があった。
「何の用だ?」
職人は、仕事の手を止めずに言った。
炉の前で、溶けたガラスを棒で回している。
「レンズを作っていただきたいんです」
「レンズ? 虫眼鏡か?」
「いえ、もっと特殊なものを」
私は、図面を取り出した。
「この形の凸レンズを、できるだけ精密に」
職人——ゲオルグは、ようやく手を止めた。
図面を受け取り、眉をひそめる。
「こんな小さいレンズ? 何に使うんだ?」
「……小さなものを、大きく見るためです」
「虫眼鏡じゃ駄目なのか」
「もっと、もっと大きく見たいんです」
ゲオルグは、私の目をじっと見つめた。
「……お前、医学院の学生か」
「はい」
「医者の卵が、なんでレンズなんか欲しがる」
私は、少し迷ってから答えた。
「……目に見えないものを、見たいんです」
「目に見えないもの?」
「病気の原因です。目に見えないほど小さな——何かがある。それを見れば、人を救えるかもしれない」
◇
ゲオルグは、しばらく黙っていた。
そして——ふっと、表情を緩めた。
「俺の女房はな」
「え?」
「十年前に死んだ。お産の後、熱を出してな」
「……」
「医者は『神の御業だ』と言った。俺には、何もできなかった」
ゲオルグは、図面を見つめた。
「お前の言う『目に見えないもの』が本当にあるなら——それを見つければ、女房みたいな人を救えるのか」
「……救えると、信じています」
◇
ゲオルグは、にやりと笑った。
「面白いじゃねえか。やってみよう」
「本当ですか!」
「難しいぞ。こんな精密なレンズは、作ったことがない」
「でも——」
「だから面白いんだ」
ゲオルグは、図面を大切そうに折り畳んだ。
「ただし、金はかかる。材料費だけで相当だ」
「払います」
私は、医学院の奨学金と、ホフマン先生からの仕送りを全て注ぎ込む覚悟だった。
◇
最初のレンズが完成したのは、二週間後だった。
「これでいいか?」
職人が、小さなガラス片を渡してくれた。
両面が膨らんだ、凸レンズだ。
私は、それを光にかざした。
「……まだ、歪みがある」
「仕方ないだろう。こんな小さいのは初めてだ」
「もう一度、作り直してもらえますか?」
職人は、ため息をついた。
「金は払ってもらうぞ」
「払います」
◇
二度目も、失敗だった。
三度目も。
四度目も。
「ルートヴィヒ、本当に大丈夫か?」
クラウスが、心配そうに言った。
「金、もう尽きるんじゃないか?」
「……まだ大丈夫だ」
嘘だった。
もう、ほとんど残っていない。
でも、諦めるわけにはいかない。
◇
五度目の試作——
「どうだ?」
職人が、新しいレンズを渡してくれた。
私は、それを手に取り、光にかざした。
「……!」
歪みが、ほとんどない。
透明で、美しいレンズだった。
「これだ……!」
「気に入ったか」
「はい……! ありがとうございます……!」
私は、涙が出そうになった。
◇
さっそく、実験を始めた。
レンズを目に近づけ、机の上の文字を見る。
「……大きく見える」
虫眼鏡より、ずっと鮮明だ。
次に、窓辺の小さな虫を見た。
「……!」
虫の足が、毛が、はっきり見える。
「すごい……」
◇
「ルートヴィヒ、どうだ?」
クラウスが、覗き込んできた。
「見てくれ、クラウス」
私は、レンズを渡した。
「この虫を見てみろ」
クラウスは、レンズを目に当てた。
「……うわ、気持ち悪い」
「違う、そうじゃない。細部が見えるだろう?」
「ああ……確かに。足の関節とか、毛とか……」
クラウスは、驚いた顔をした。
「すごいな、これ」
◇
しかし、これではまだ足りない。
もっと小さなものを見るには、もっと高い倍率が必要だ。
「レンズを二枚重ねたら、どうなるだろう」
私は、実験を続けた。
凸レンズを二枚、筒の両端に固定する。
一枚で拡大した像を、もう一枚でさらに拡大する——
「……見える」
水滴を観察すると、何かが動いているのが分かった。
まだぼやけているが、確かに——何かがいる。
「もっと精密なレンズが必要だ」
◇
再び、ガラス工房へ通い始めた。
「また来たのか」
職人のゲオルグが、呆れた顔で言った。
「今度は、何だ?」
「もっと精密なレンズを。もっと小さく、もっと正確に」
「お前、金はあるのか?」
「……」
私は、黙り込んだ。
正直、もう限界だった。
◇
「困っているなら、手伝うぞ」
背後から、声がした。
振り向くと、クラウスが立っていた。
「クラウス……」
「俺、一応貴族だからな。小遣いくらいはある」
「でも……」
「いいから。友達だろ?」
クラウスは、にっこり笑った。
「お前の研究、俺は信じてる」
私は、言葉が出なかった。
「……ありがとう」
◇
クラウスの援助で、研究は続けられることになった。
「でも、いつまでも頼るわけにはいかない」
「分かってる。だから、早く成果を出せ」
「ああ」
私は、決意を新たにした。
必ず、顕微鏡を完成させる。
そして、目に見えない敵の正体を暴く。
◇
夜遅く、私はノートに計算式を書き込んでいた。
レンズの曲率、焦点距離、倍率——
前世の知識を頼りに、最適な組み合わせを探る。
「もう少しだ……」
窓の外では、星が輝いていた。
前世では、顕微鏡を研究に使おうとは思わなかった。
でも、今度は自分で作る。自分の手で、真実を見る。
「必ず、完成させる」
二十歳——レンズの探求は、まだ始まったばかりだった。




