第3話 王都への旅立ち
十八歳の春——私は、王都に向けて旅立った。
◇
「体に気をつけるんだよ」
母が、涙を流しながら言った。
「農家の子が医者なんて……無茶だよ……」
「大丈夫だよ、母さん。必ず立派になって帰ってくる」
父は、黙って私の肩を叩いた。
「……頑張れ」
それだけ言って、背を向けた。泣いていたのかもしれない。
◇
ホフマン先生が、村の外れまで見送ってくれた。
「これが推薦状だ。大切にしろ」
「はい」
「王都は厳しい場所だ。特に、平民出身者には」
老医師は、真剣な目で言った。
「貴族の子弟たちに馬鹿にされることもあるだろう。でも、負けるな」
「負けません」
私は、力強く答えた。
「ホフマン先生の名に恥じないよう、頑張ります」
◇
王都までは、馬車で三日の距離だった。
乗合馬車に揺られながら、私は前世のことを思い出していた。
ウィーン大学。
あの時も、同じように希望に満ちていた。
医学を学び、人を救う——そう信じていた。
結果は、どうだった?
孤独に死んだ。
「今度は、違う」
私は、自分に言い聞かせた。
「今度は、証拠を見せる。目に見える形で」
◇
王都に着いた時、その大きさに圧倒された。
高い城壁。
無数の建物。
溢れかえる人々。
「すごい……」
私の村の何百倍もの人が、ここには住んでいる。
この中で、私は生き残らなければならない。
◇
王立医学院は、北区の学者街にあった。
白い大理石造りの壮大な建物。
正門には、蛇の巻きついた杖の紋章が刻まれている。
「ここが……」
私は、門の前で立ち尽くした。
前世のウィーン大学を思い出す。
あの時と同じ——いや、もっと大きな建物だ。
◇
入学試験は、三日間にわたって行われた。
筆記試験、面接、実技試験——
前世の知識があるおかげで、筆記試験は簡単だった。
面接では、少し苦労した。
「農家の出身か。珍しいな」
試験官が、冷ややかな目で言った。
「なぜ医者になりたい?」
「人を救いたいからです」
「具体的には?」
「……お産で死ぬ母親を、減らしたいんです」
試験官は、眉をひそめた。
「お産の熱は、神の御業だ。人間にはどうしようもない」
「……」
私は、反論を飲み込んだ。
今は、まだ言うべき時ではない。
◇
結果は——合格だった。
「よくやった」
ホフマン先生からの手紙が届いた。
「これからが本当の勝負だ。精進せよ」
私は、その手紙を大切にしまった。
◇
医学院での生活が始まった。
一年生は、基礎的な解剖学と薬草学を学ぶ。
私は、前世の知識があるおかげで、授業についていくのは簡単だった。
しかし、別の問題があった。
「おい、平民」
貴族の子弟たちが、私を取り囲んだ。
「お前、場違いじゃないか?」
「農家の倅が、医者になれると思ってるのか」
「身の程を知れよ」
私は、黙って彼らの言葉を聞いていた。
反論しても、無駄だ。
実力で示すしかない。
◇
そんな中、一人だけ——私に声をかけてくれた男がいた。
「気にするな」
金髪の青年が、にこやかに言った。
「あいつらは、暇なんだ」
「……君は?」
「クラウス・フォン・シュタインベルク。二年生だ」
「フォン……貴族?」
「ああ。でも、三男坊だから、家を継ぐ気はないんだ」
クラウスは、笑った。
「お前、ルートヴィヒだろ? 入試で首席だったって聞いたぞ」
「……そうなんですか?」
「知らなかったのか。すごいな」
◇
クラウスは、不思議な人だった。
貴族なのに、平民の私を対等に扱ってくれる。
「お前、なんで医者になりたいんだ?」
ある日、クラウスが聞いてきた。
「人を救いたいから、か?」
「……それもあります」
「それも? 他にあるのか?」
私は、少し迷ってから答えた。
「……真実を証明したいんです」
「真実?」
「目に見えないものを、見えるようにしたい」
クラウスは、首を傾げた。
「面白いな。どういう意味だ?」
◇
私は、慎重に言葉を選んだ。
「お産の熱って、知ってますか?」
「ああ。出産後に母親が死ぬやつだろ」
「あれ、原因があるんです」
「原因? 神の御業じゃなくて?」
「……目に見えない、何かが原因です」
クラウスの目が、真剣になった。
「その『何か』って、何だ?」
「まだ、分かりません。でも、必ず見つけます」
「……」
クラウスは、しばらく黙っていた。
そして——笑った。
「面白いじゃないか」
「え?」
「馬鹿にしてるんじゃないぞ。本当に面白いと思ったんだ」
クラウスは、私の肩を叩いた。
「俺も、手伝うよ」
◇
こうして、私は初めての友人を得た。
クラウス・フォン・シュタインベルク。
貴族の三男坊で、好奇心旺盛な青年。
彼は、私の研究に興味を示してくれた。
「目に見えないものを、見えるようにする、か」
「はい」
「どうやって?」
「……まだ、分かりません」
私は、正直に答えた。
前世では、統計データだけで説得しようとした。
「死体粒子」の正体を突き止めようとはしなかった。
それが、敗因だった。
「でも、必ず方法を見つけます」
「面白いな、お前」
クラウスは、興味深そうに言った。
「俺も手伝うよ。何か思いついたら、教えてくれ」
◇
図書館通いが、日課になった。
古い文献を読み漁り、答えを探した。
ある日——光学の書物を読んでいた時だった。
「虫眼鏡」という道具についての記述を見つけた。
凸レンズで、小さな文字を大きく見る道具だ。
「……待てよ」
私は、ページを握りしめた。
小さなものを、大きく見る?
「死体粒子」は、目に見えないほど小さい。
だから、誰も信じなかった。
でも——もし、大きく拡大して見ることができたら?
◇
私の手が、震えた。
前世では、この発想がなかった。
顕微鏡という道具は、当時も存在した。
しかし、医学研究にそれを使おうとは思わなかった。
「死体粒子」を拡大して見るなど、考えもしなかった。
なぜだろう。
統計データに固執するあまり、他の可能性を見落としていたのか。
「馬鹿だった……」
私は、呟いた。
「答えは、すぐそこにあったのに……」
◇
「クラウス!」
翌日、私は友人を捕まえた。
「虫眼鏡を知ってるか?」
「ああ、老眼鏡みたいなやつだろ?」
「あれを、もっと強力にできないか」
「強力に?」
「小さな文字じゃなくて——目に見えないほど小さなものを、見えるようにしたい」
クラウスは、目を丸くした。
「そんなことができるのか?」
「分からない。でも、試してみたい」
私は、ノートを広げた。
「レンズを二枚重ねれば、もっと拡大できるかもしれない」
「お前、どこでそんな発想を——」
「図書館で読んだんだ」
嘘ではない。きっかけは、この世界の書物だった。
前世の私には、なかった発想だ。
◇
「これを、もっと強力にすれば……」
私は、ノートに計算式を書き込んだ。
前世では証明できなかった仮説。
この世界で——目に見える形で、証明してみせる。
◇
一年生の終わり——
私は、成績で学年首席を取った。
「すごいな、ルートヴィヒ」
クラウスが、嬉しそうに言った。
「平民で首席なんて、前代未聞だぞ」
「……ありがとう」
しかし、私の心は晴れなかった。
成績がいいだけでは、意味がない。
真実を証明しなければ——何も変わらない。
◇
「焦るなよ」
クラウスが、私の気持ちを見透かしたように言った。
「まだ一年生じゃないか。時間はある」
「……そうだな」
「お前には、才能がある。俺には分かる」
クラウスは、真剣な目で言った。
「いつか、お前は世界を変える。俺は、そう信じてる」
◇
その夜、私は星を見上げながら思った。
前世では、一人で戦った。
孤独に、孤独に——そして、壊れた。
でも、今度は違う。
クラウスがいる。
ホフマン先生がいる。
一人じゃない。
「今度こそ……」
私は、拳を握りしめた。
「今度こそ、成し遂げてみせる」
十八歳——王都での新しい人生が、始まった。




