第2話 見えない敵
十歳で前世の記憶を取り戻してから、六年が過ぎた。
私は十六歳になっていた。
◇
農家の三男——それが、この世界での私の立場だった。
長男が家を継ぎ、次男は町の職人に弟子入りした。
三男の私には、特に決まった道がなかった。
「ルートヴィヒ、お前はどうするんだ?」
父が、ある日尋ねてきた。
「医者になりたいんだ」
「医者? 農家の息子が?」
父は、驚いた顔をした。
「金がかかるぞ。うちにそんな余裕はない」
「分かってる。だから、まずは村の産婆の手伝いから始めようと思うんだ」
◇
村には、グレーテルという年老いた産婆がいた。
彼女は四十年以上、この村の出産を取り仕切ってきた。
「あんたが、手伝いたいって?」
グレーテルは、私を値踏みするように見た。
「男の子が、産婆の仕事を?」
「はい。医者になりたいんです。そのために、経験を積みたい」
「……変わった子だね」
グレーテルは、しばらく考え込んだ。
「まあ、いいよ。力仕事くらいなら、使えるだろう」
こうして、私は産婆の助手になった。
◇
最初の仕事は、水汲みや薪割りだった。
出産に立ち会うことは、まだ許されなかった。
「男は穢れてるからね。お産の場には入れないよ」
グレーテルは、そう言った。
私は黙って雑用をこなしながら、機会を待った。
◇
ある日——村の若い妻が、難産になった。
「グレーテルさん! 助けて!」
夫が、血相を変えて駆け込んできた。
「赤ん坊が、出てこない……!」
グレーテルは、すぐに駆けつけた。
私も、荷物持ちとして同行した。
◇
産室に入った瞬間、私は前世の記憶が蘇るのを感じた。
血の匂い。
苦しむ母親。
叫び声。
——前世の産科病棟と、同じだった。
「ルートヴィヒ、お湯を沸かしな!」
グレーテルの声で、我に返った。
「は、はい!」
私は、指示に従って動いた。
◇
数時間後、赤ん坊は無事に生まれた。
「おぎゃあ……おぎゃあ……」
元気な泣き声が響く。
母親も、疲れた顔で微笑んでいた。
「ありがとう……ありがとう……」
「良かったね」
グレーテルが、赤ん坊を母親に渡した。
私は、ホッと胸を撫で下ろした。
◇
しかし——三日後。
その母親は、高熱を出して寝込んだ。
「熱が……下がらない……」
「お腹が……痛い……」
私は、その症状を見て、血の気が引いた。
産褥熱だ。
前世で、何度も見た症状。
「グレーテルさん、これは——」
「ああ、お産の熱だね」
グレーテルは、顔を曇らせた。その目には、諦めの色があった。
「四十年、この仕事をやってきた。何人も見てきたよ、この熱で死んでいく母親を」
「治す方法は——」
「ないね。体を冷やして、滋養のあるものを食べさせて、あとは神様に祈るだけ。運のいい子は助かる。運の悪い子は——」
グレーテルは、首を横に振った。
◇
私は、必死に訴えた。
「手を洗ってください! 清潔にすれば——」
「何を言ってるんだい」
グレーテルは、怪訝な顔をした。
「手を洗う? そんなことで、熱が下がるわけないだろう」
「でも、前世で——」
言いかけて、口をつぐんだ。
前世のことなど、言えるはずがない。
「……お願いです。試してください」
「駄目だよ。余計なことをして、もっと悪くなったらどうするんだ」
◇
一週間後——その母親は、死んだ。
生まれたばかりの赤ん坊を残して。
私は、悔しさで涙が出た。
分かっていた。原因も、防ぐ方法も。
なのに、何もできなかった。
「手洗いをすれば、助かったかもしれないのに……」
前世と、同じだった。
見えない敵が、また人を殺した。
◇
その後も、同じことが繰り返された。
出産は無事に終わる。
しかし、数日後に母親が熱を出す。
そして——死んでいく。
「お産の熱だよ。仕方ないさ」
グレーテルは、諦めた顔で言った。
「昔からそうなんだ。神様が決めることさ」
私は、その言葉に反論できなかった。
証拠がないからだ。
目に見えない敵の存在を、どうやって証明すればいい?
◇
ある日、私は決意した。
「手洗いを、自分から始めよう」
グレーテルの目を盗んで、私は出産に立ち会う前に手を洗った。
井戸水で、丁寧に。
「ルートヴィヒ、何してるんだい?」
「……手が汚れてたので」
グレーテルは、首を傾げたが、それ以上は何も言わなかった。
◇
私が直接触れた母親は——産褥熱にならなかった。
偶然かもしれない。
でも、私は確信した。
前世の仮説は、この世界でも正しい。
「もっとデータを集めなければ……」
私は、密かに記録をつけ始めた。
◇
十七歳の春——
村に、一人の老医師が訪れた。
ホフマン先生。
王都で長年医師をしていたが、引退して田舎に移り住んできたという。
「この村に、医者の卵がいると聞いてな」
ホフマン先生は、白い髭を撫でながら言った。
「お前がルートヴィヒか」
「はい」
「産婆の手伝いをしているそうだな。珍しい」
「医者になりたいんです」
◇
ホフマン先生は、私の話に興味を示した。
「お産の熱について、考えがあるそうだな」
「……聞いたんですか」
「グレーテルが言っていた。変なことを言う子だと」
私は、緊張しながらも、自分の考えを話した。
「手洗いをすれば、お産の熱を防げると思うんです」
「ほう。なぜそう思う?」
「……夢で見たんです」
嘘だった。でも、前世のことは言えない。
「夢で、医者たちが手を洗ったら、死ぬ人が減ったんです」
◇
ホフマン先生は、笑わなかった。
「面白い」
「……本当ですか?」
「私も、似たようなことを考えたことがある」
老医師の目が、真剣になった。
「王都の病院で働いていた頃、不思議に思ったんだ」
「何をですか?」
「産科の医師が、解剖の後にそのまま患者を診察していた。そして、その患者の多くが熱を出した」
私は、驚いた。
この人も、気づいていたのか。
◇
「しかし、証拠がなかった」
ホフマン先生は、ため息をついた。
「『死体から何かが移る』——そう言っても、誰も信じない」
「……」
「目に見えない。だから、証明できない」
私は、前世の自分を見ているような気がした。
同じ壁に、ぶつかっている。
◇
「先生」
私は、決意を込めて言った。
「僕は、それを証明したいんです」
「どうやって?」
「目に見えないものを、見えるようにすればいい」
ホフマン先生は、目を見開いた。
「見えるように……?」
「方法は、まだ分かりません。でも、必ず見つけます」
老医師は、しばらく黙っていた。
そして——静かに、微笑んだ。
「面白い子だ」
「……」
「お前、王都の医学院に行く気はあるか?」
◇
「王都の医学院……?」
「私の推薦があれば、入学試験を受けられる」
ホフマン先生は、言った。
「農家の子供には難しい道だ。金もかかる。でも——」
老医師は、私の目を真っ直ぐ見つめた。
「お前には、才能がある。いや、才能というより——使命を感じる」
「使命……」
「世界を変えられるかもしれない。お前には、その可能性がある」
◇
私は、震える声で答えた。
「行きたいです」
「よし」
ホフマン先生は、頷いた。
「推薦状を書いてやろう。入学試験は、来年の春だ」
「ありがとうございます……!」
私は、深く頭を下げた。
ホフマン先生という理解者——前世にはいなかった存在だ。
十七歳の春——王都への道が、開かれた。




