第1話 二つの人生
前世——私は、ハンガリーという国で生まれた。
1818年、ブダペストの裕福な商家の五男として。
◇
父は食料品店を営み、私たち兄弟を大切に育ててくれた。
「イグナーツ、お前は何になりたい?」
「分かりません、父さん」
幼い頃の私には、まだ夢がなかった。
ただ、人の役に立ちたいという漠然とした思いだけがあった。
◇
十五歳の時、妹のアンナが病気になった。
高熱が何日も続き、母は泣きながら看病していた。
「アンナ……アンナ……」
医師が呼ばれたが、首を横に振るだけだった。
「もう、手の施しようがありません」
私は、無力だった。
妹の手を握りながら、祈ることしかできなかった。
◇
しかし、奇跡が起きた。
近所の老婆が、薬草を煎じて持ってきてくれたのだ。
「これを飲ませなさい。昔からの知恵だよ」
半信半疑で飲ませると——アンナの熱が、少しずつ下がり始めた。
一週間後、妹は完全に回復した。
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます……」
母が、老婆の手を握って泣いていた。
◇
私は、その日から考えるようになった。
医師は「手の施しようがない」と言った。
でも、老婆の薬草で妹は助かった。
「医学には、まだ分かっていないことがたくさんあるんだ……」
私は、医学の道を志すことを決めた。
◇
十八歳で、ウィーン大学に入学した。
最初は法学を学んでいたが——ある日、解剖学の講義を見学する機会があった。
「これだ……」
人体の神秘に、私は魅了された。
筋肉、骨、内臓——すべてが精密に組み合わさって、一つの生命を形作っている。
「人間の体は、なんと美しいんだ」
法学から医学へ——私は転科を決意した。
◇
1844年、二十六歳で医学博士号を取得した。
そして、ウィーン総合病院の産科に勤務することになった。
「ゼンメルワイス先生、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
私は、希望に満ちていた。
多くの母親と赤ん坊を救う——それが、私の使命だと思った。
◇
しかし、産科病棟で私が見たものは——地獄だった。
産褥熱——出産後の母親を襲う、恐ろしい病気。
高熱、悪寒、腹痛——そして、死。
「先生……助けて……お願い……」
熱に浮かされた母親が、私の手を掴む。
「赤ちゃんを……この子だけは……」
その手は、数時間後には冷たくなっていた。
母親たちが、次々と死んでいく。
生まれたばかりの赤ん坊を残して。
私は、拳を握りしめた。
「原因は何だ。何が、彼女たちを殺しているんだ」
◇
私は、データを集め始めた。
ウィーン総合病院には、二つの産科病棟があった。
第一病棟——医学生が担当。産褥熱の死亡率は、約10%。
第二病棟——助産師が担当。産褥熱の死亡率は、約2%。
「五倍も違う……なぜだ?」
同じ病院なのに、なぜこれほど差があるのか。
私は、夜も眠れずに考え続けた。
◇
1847年——
親友のヤーコプ・コレチュカが、解剖実習中に指を切り、感染症で死亡した。
「ヤーコプ!」
病床に駆けつけた時、彼はすでに意識がなかった。
顔は蝋のように白く、額には脂汗が浮かんでいる。
高熱、悪寒、腹部の激痛——
私は、息を呑んだ。
その症状は——産褥熱と、まったく同じだった。
死体を扱った傷から感染し、妊婦と同じ症状で死んでいく。
その瞬間、恐ろしい仮説が頭をよぎった。
◇
医学生たちは、解剖実習の後にそのまま産科病棟に来ている。
死体を触った手で、妊婦を診察している。
死体から何かが——妊婦に移っているのではないか?
「もし、そうなら……」
私は、実験を行った。
医学生たちに、塩素石灰水で手を洗うよう指示した。
◇
結果は——劇的だった。
第一病棟の死亡率が、10%から1%に激減した。
「やはり……」
私は、確信した。
手洗いで、産褥熱は防げる。
「これを広めれば、多くの命が救える!」
◇
しかし、私の発見は——医学界に受け入れられなかった。
「馬鹿げた仮説だ」
「医師が患者を殺しているというのか?」
「ゼンメルワイスは、狂っている」
上司のクライン教授は、私を解雇した。
「お前のような危険な思想を持つ者を、この病院に置いておくわけにはいかない」
「でも、データが——」
「黙れ! これ以上騒ぐなら、医師免許を剥奪する」
◇
1850年、私はウィーンを去り、故郷のブダペストに戻った。
聖ロクス病院の産科で、手洗いを導入した。
結果は、やはり劇的だった。死亡率が、激減した。
「見ろ、データは明らかだ」
私は、論文を書いた。本を出版した。
学会で発表しようとした。
しかし——医学界は、私を無視し続けた。
◇
「なぜだ……なぜ、分かってもらえないんだ……」
孤独な闘いが、私の精神を蝕んでいった。
怒り、悲しみ、絶望——
同僚たちからは避けられ、患者からも「変わった医師」と呼ばれた。
妻だけが、私を支えてくれた。
「イグナーツ、あなたは間違っていない」
「マリア……」
「いつか、必ず分かってもらえる。信じて」
◇
しかし、私は少しずつ壊れていった。
「手を洗え! 手を洗わないから、人が死ぬんだ!」
街中で叫ぶようになった。
見知らぬ医師をつかまえては、説教した。
「あなたは人殺しだ! 手を洗え!」
誰もが、私を避けるようになった。
◇
1865年——
私は、精神病院に収容された。
暗い独房の中で、私は泣いた。
「なぜだ……なぜ、分かってもらえないんだ……」
「手洗いをすれば、命は救えるのに……」
そして、わずか二週間後——
看守との揉み合いで負った傷が感染し、敗血症を発症した。
◇
皮肉にも——私が一生かけて研究した病気と、同じ原因で。
意識が遠のく中、私は思った。
(私は、間違っていなかった……)
(でも、誰も……誰も……)
(もし、もう一度やり直せたら……)
私の意識は、そこで途切れた。
四十七歳——孤独な死だった。
◇
——そして、目を覚ました時。
私は、赤ん坊だった。
◇
見知らぬ天井。見知らぬ言葉。見知らぬ世界。
「おぎゃあ……」
泣き声を上げながら、私は混乱していた。
何が起きた?
死んだはずなのに——なぜ、意識がある?
そして——なぜ、赤ん坊の体なんだ?
◇
数年かけて、私は状況を理解した。
ここは、異世界だ。
魔法が存在し、文明レベルは中世ヨーロッパ程度。
私は——転生したのだ。
前世の記憶を持ったまま、この世界に生まれ変わった。
私の新しい名前は、ルートヴィヒ・ベルク。
農家の三男として生まれた。
◇
しかし、前世の記憶は曖昧だった。
夢のような断片が、時々蘇るだけ。
医師だったこと。
何か大切なことを発見したこと。
でも、誰にも信じてもらえなかったこと。
「何だったんだろう……」
私は、モヤモヤした気持ちを抱えながら成長した。
◇
十歳の誕生日——
私は、高熱を出して倒れた。
三日間、意識がなかった。
そして、目を覚ました時——
すべての記憶が、鮮明に蘇っていた。
◇
イグナーツ・ゼンメルワイス。
産褥熱。
手洗い。
そして——孤独な死。
「思い出した……」
私は、ベッドの上で涙を流した。
「全部、思い出した……」
◇
前世の私は、「死体粒子」と呼んでいた。
死体を触った手から、何か目に見えない微細なものが妊婦に移る——
そう確信していた。
だから、手を洗えば防げると訴えた。
しかし、証拠がなかった。
顕微鏡という道具は、当時も存在した。
小さなものを拡大して見る装置だ。
しかし、私は——それを使おうとは思わなかった。
「死体粒子」が何なのか、顕微鏡で見えるものなのか。
そもそも、そんな発想すらなかった。
統計データだけで、医学界を説得できると思っていた。
結果は——誰にも信じてもらえず、狂人として死んだ。
◇
母が、心配そうに覗き込んできた。
「ルートヴィヒ、大丈夫?」
「……大丈夫、母さん」
私は、涙を拭いた。
「大丈夫だよ」
でも、心の中では後悔が渦巻いていた。
なぜ、あの時——
「死体粒子」の正体を、突き止めようとしなかったのか。
顕微鏡で見ようとしなかったのか。
目に見える証拠があれば、皆を説得できたかもしれないのに。
◇
「今度こそ……」
私は、誓った。
「今度こそ、手洗いの重要性を広める」
「そして——見えない敵の正体を、暴いてみせる」
「前世では、発想すらできなかった」
「でも、今なら分かる。答えは、きっとある」
十歳の私は、第二の人生を歩み始めた。




