第5話 研究者への転身
集団食中毒の騒動から一ヶ月が過ぎた。
私の生活は、大きく変わっていた。
◇
「先生、今日も遅くまでですか」
妻が、書斎を覗き込んだ。
「ああ。症例をまとめている」
「また、リーゼ様に教わったことですか?」
「そうだ」
私は、ノートから顔を上げた。
「今回の集団食中毒で、多くのことを学んだ。それを記録しておきたい」
「記録……」
「病気の原因、感染経路、対処法——すべてを体系化する」
「他の医師にも、伝えられるように」
◇
私は、症例記録を書き始めた。
集団食中毒の発生から終息まで。
市場の傷んだ魚が原因だったこと。
該当食品の廃棄と警告で被害が止まったこと。
経口補水液による脱水防止が効果的だったこと。
すべてを詳細に記録した。
◇
「なぜ、そこまで詳しく書くのですか?」
妻が、不思議そうに聞いた。
「次に同じ病気が起こった時のためだ」
私は答えた。
「私一人の経験で終わらせてはいけない」
「他の医師が読めば、同じ対処ができるようにしたい」
「……」
「リーゼ君は言っていた。病気には必ず原因がある、と」
「その原因を突き止め、対処法を確立する——それが、医学の進歩だ」
◇
二ヶ月後、私は一本の論文を書き上げた。
「水系感染症の原因特定と対処法について」
それが、私の最初の学術論文だった。
◇
論文を書き終えた後、私はハイムダル領を訪ねた。
「ハインリヒ先生、いらっしゃい」
リーゼが、笑顔で迎えてくれた。
「今日は、見ていただきたいものがある」
私は、論文を差し出した。
「これは……」
リーゼが、ページをめくる。
「水系感染症の……論文ですか」
「ああ。あの集団食中毒の経験を、まとめてみた」
◇
リーゼは、真剣な表情で論文を読んだ。
時折、頷きながら。
読み終えると、顔を上げた。
「素晴らしいです」
「本当か?」
「はい。原因の特定から対処法まで、論理的にまとまっています」
「これなら、他の医師も理解できます」
私は、安堵の息を漏らした。
正直、不安だったのだ。
四十歳にして初めて書いた論文——批判されるかもしれないと。
◇
「でも、一点だけ」
リーゼが言った。
「もう少し、予防についても触れてはいかがですか?」
「予防……?」
「はい。食品の保存方法、鮮度の見分け方、調理前の衛生管理——」
「そういった内容を加えれば、より実用的になります」
「なるほど……」
私は、メモを取った。
「確かに、発生を防ぐことが一番大切だな」
「はい。治療より予防——それが、公衆衛生の基本です」
また、新しい言葉を学んだ。
公衆衛生——個人ではなく、地域全体の健康を守る考え方。
◇
論文を改訂し、私は隣町の医師たちに見せた。
反応は——予想外だった。
「これは……すごい」
同僚のエルンストが、目を見開いた。
「傷んだ魚が原因だったのか……」
「ああ。廃棄と警告をしてから、新たな患者は出なくなった」
「信じられない」
「私も最初は半信半疑だった。でも、結果が証明している」
エルンストは、しばらく考え込んだ。
そして——
「ハインリヒ、これを王都に送るべきだ」
「王都……?」
「医学院に。この論文は、評価されるべきだ」
◇
王都の医学院——この国の医学の最高学府だ。
そこに論文を送る。
考えたこともなかった。
「いや、私などが……」
「何を言っている」
エルンストが、強い口調で言った。
「二十年間、地方で医師をしてきたお前が、新しい知見を発見したんだ」
「それを広めないでどうする」
「……」
「お前の経験と、あの少女の知識——それが組み合わさって、この論文ができた」
「これは、価値がある。絶対に」
◇
私は、迷った。
王都の医学院。
そこには、一流の医師たちがいる。
私のような田舎の開業医が、相手にされるだろうか。
「あなた」
妻が、静かに言った。
「迷っているのですか?」
「ああ……」
「送ってみれば、いいじゃないですか」
「しかし……」
「リーゼ様から学んだことを、広めたいと言っていたでしょう?」
「……」
「王都に届けば、もっと多くの人に伝わります」
「それが、あなたの望みではないですか?」
◇
妻の言葉は、いつも正しかった。
私は、論文を王都に送った。
返事が来るかどうかも分からない。
それでも、送った。
リーゼから学んだことを、一人でも多くの人に伝えるために。
◇
送ってから、三ヶ月が過ぎた。
私は普段通りの診療を続けていた。
そして、相変わらずリーゼの診療所に通っていた。
「今日の症例は——」
「面白い病態ですね。おそらく——」
医学について語り合う時間。
それが、私の生きがいになっていた。
◇
ある日、診療所から帰ると——
妻が、興奮した様子で待っていた。
「あなた、手紙が来ています」
「手紙?」
「王都から。医学院からです」
私は、心臓が跳ね上がるのを感じた。
封を開ける。
「……」
内容を読んで、私は——言葉を失った。
「どうしたのですか?」
「……招聘だ」
「え?」
「王都の医学院が、私を招いている」
「病理学の研究者として——」




