第3話 病理学への目覚め
リーゼと知り合って、二ヶ月が過ぎた。
私は、定期的にハイムダル領を訪れるようになっていた。
◇
「ハインリヒ先生、いらっしゃい」
リーゼが、笑顔で出迎えてくれた。
最初の頃は「先生」と呼ばれることに違和感があった。
十一歳の少女に敬称で呼ばれるなど。
しかし今は、慣れた。
むしろ、光栄に感じるようになっていた。
「今日も、見学させてもらう」
「もちろんです。ちょうど、珍しい症例がありますよ」
◇
患者は、四十代の男性だった。
発熱、咳、血痰——一ヶ月以上続いている。
「いつから、症状が?」
リーゼが、問診を行う。
「二ヶ月ほど前からです……」
「体重は減りましたか?」
「ええ……かなり」
リーゼは、聴診器を当てた。
「肺に異常音があります。呼吸も浅い」
彼女は、私を見た。
「ハインリヒ先生、どう思われますか?」
「……結核だな」
私は、答えた。
「この症状パターンは、典型的だ」
「はい。私もそう思います」
リーゼの表情が、曇った。
「でも、問題は——治療法がないことです」
◇
結核——この国の医学では、不治の病だ。
多くの患者が、命を落としていく。
「安静にして、栄養を取ってください」
リーゼは、患者に優しく言った。
「体力を維持することが、大切です」
患者が帰った後、私はリーゼに尋ねた。
「君の知識では、結核の治療法はあるのか?」
リーゼは、少し考え込んだ。
「理論的には……あります」
「本当か?」
「はい。でも、この世界では実現が難しい」
「必要な薬品や技術が、まだ存在しないのです」
◇
その言葉に、私は興味を持った。
「どういうことだ?」
「結核は、細菌によって引き起こされます」
リーゼは、説明し始めた。
「目に見えない小さな生き物——細菌が、肺に感染して炎症を起こす」
「目に見えない生き物……」
「はい。それを殺す薬があれば、治療できます」
「でも、その薬を作るには——特別な技術と設備が必要なのです」
◇
細菌という概念——それは、この国の医学にはない考え方だった。
病気は、体液のバランスが崩れることで起こる——それが、伝統的な医学の教えだ。
「瘴気が病気の原因だと、私たちは習った」
私は、言った。
「悪い空気が、病気を引き起こすと」
「それは、一部は正しいです」
リーゼが答えた。
「空気中に病原体が含まれていることがあります」
「でも、瘴気そのものが原因ではありません」
「細菌やウイルスという、目に見えない生き物が原因なのです」
◇
「ウイルス……?」
「細菌よりさらに小さな病原体です」
リーゼは、説明を続けた。
「病気には、必ず原因があります」
「その原因を突き止めれば、治療法や予防法が見えてくる」
「それが——病理学の考え方です」
「病理学……」
私は、その言葉を噛みしめた。
病気の原因を追求する学問。
症状だけを見るのではなく、なぜその症状が起こるのかを考える。
「これが、君の知識の根幹なのか」
「はい。すべての診断と治療は、病理学に基づいています」
◇
その日から、私の学びは本格的になった。
リーゼが教えてくれる概念を、一つ一つ理解していく。
感染症の原因——細菌やウイルス。
炎症の仕組み——体の防御反応。
免疫——体が病原体と戦う仕組み。
「すべてが、繋がっているのか……」
私は、驚きの連続だった。
「病気は、ランダムに起こるのではない」
「必ず原因があり、必ず理由がある」
「それを理解すれば、対処法も見えてくる」
◇
ある日、リーゼの診療を見学していた時のこと。
患者は、若い女性。腹痛を訴えていた。
「いつから、症状が?」
「三日前からです……」
「痛みの場所は?」
「右のあたり……」
リーゼは、丁寧に問診を行い、腹部を触診した。
「右下腹部に圧痛があります。反跳痛も……」
彼女の表情が、真剣になった。
「虫垂炎の可能性があります」
◇
私は、息を呑んだ。
虫垂炎——正しい診断だ。
症状から、的確に判断している。
「すぐに、安静にしてください」
リーゼは、患者に説明した。
「症状が進行すると、手術が必要になる可能性があります」
「今は、絶食で経過を見ましょう。症状が悪化したら、すぐに知らせてください」
診療が終わった後、私はリーゼに話しかけた。
「見事な診断だった」
「ありがとうございます」
リーゼは、少し照れたような表情を見せた。
「でも、虫垂炎は難しい病気です。経過観察を続けないといけません」
「ああ。穿孔したら、大変なことになる」
「はい。腹膜炎を起こせば、命に関わります」
その知識の深さに、また驚かされた。
◇
「リーゼ君」
私は、意を決して言った。
「もしよければ……時々、症例について相談させてもらえないか?」
「え……?」
「私も医師として二十年やっているが、まだまだ分からないことがたくさんある」
「君の新しい視点が、きっと役に立つはずだ」
リーゼは、目を丸くした。
そして——嬉しそうに微笑んだ。
「こちらこそ、ぜひお願いします」
「ハインリヒ先生の経験から、私も多くを学ばせていただきたいです」
◇
その日から、私とリーゼの関係は深まっていった。
定期的に症例を議論し、新しい知識を学ぶ。
そして、自分の経験も伝える。
「この症状の時は、こういう治療が効果的だった」
「なるほど。経験に基づいた知見ですね」
お互いに学び合う関係。
年齢も、身分も関係ない。
医学を追求する者同士として。
◇
「あなた、また勉強ですか」
妻が、呆れたように言った。
「この年になって、学生時代より熱心ですね」
「ああ。面白いんだ」
私は、ノートから目を離さなかった。
リーゼから学んだことを、整理している。
「医学には、まだまだ知らないことがある」
「それを学ぶのが、楽しくて仕方がない」
「リーゼ様に、感謝しないといけませんね」
「ああ……本当に」
あの少女に出会わなければ、私は今も「これで十分だ」と思っていただろう。
二十年の経験に満足して、新しいことを学ぼうともしなかっただろう。
◇
四十歳の私は、新しい世界に目覚めた。
病理学——病気の原因を追求する学問。
それが、私の新しい道だと感じ始めていた。




