第2話 屈辱の敗北
診療所の中は、清潔で整然としていた。
予想外だった。
◇
「こんにちは。どうされましたか?」
中年の女性——マルタという薬草師——が出迎えてくれた。
「私は、隣町の医師だ」
私は、名乗った。
「ハインリヒという」
「まあ、お医者様でしたか」
「ああ。少し、見学させてもらいたい」
「もちろんです。リーゼ様、お客様ですよ」
◇
少女が、こちらを向いた。
銀色の髪、真剣な瞳。
十一歳とは思えない、落ち着いた雰囲気。
「初めまして。リーゼ・フォン・ハイムダルです」
「ハインリヒだ。隣町で開業医をしている」
「そうですか。見学ですか?」
「いや——」
私は、袖をまくった。
腕には、赤い湿疹がある。小さな水疱が散在し、周囲の皮膚は乾燥して剥がれかけている。
「これは何か、診断できるか?」
◇
リーゼは、私の腕をじっと見つめた。
その目は、真剣だった。子供のものとは思えない、鋭い観察眼。
数秒間の沈黙。
そして、リーゼが口を開いた。
「接触性皮膚炎ですね」
私は、息を呑んだ。
「何か特定の物質に触れて、アレルギー反応を起こしています」
リーゼは、説明を続けた。
「最近、新しい薬品や金属、革製品などに触れませんでしたか? 特に、手に触れるもの。インク、ペン、手袋など」
私は——言葉を失った。
正解だ。
完璧な診断だ。
◇
「……確かに」
渋々、認めざるを得なかった。
「新しいインクを使い始めた。一週間ほど前から、王都から取り寄せた高級インクを」
「それです」
リーゼは頷いた。
「そのインクに含まれる成分——おそらく金属化合物が、原因かもしれません」
「まず、使用を中止してください」
彼女は、傍らのマルタに目配せした。
マルタが棚から軟膏の瓶を取り出す。
「この軟膏を塗ってください。一日二回、朝と晩に」
「カモミールの煎じ薬で患部を洗ってください。かゆみが強い時は、冷たい布で冷やすと楽になります」
「掻かないように注意してください。掻くと、さらに悪化します」
◇
私は、黙って軟膏を受け取った。
頭の中が、真っ白だった。
十一歳の少女に、完璧な診断をされた。
私が二十年かけて積み上げてきた医学知識——それを、この子供は軽々と超えていた。
「……どうやって」
私は、かすれた声で聞いた。
「どうやって、そこまで分かった?」
「発疹の分布パターンを見ました」
リーゼは、落ち着いた声で答えた。
「腕の外側、特に前腕部——何かに触れた場所です。境界が明瞭なので、感染症ではなくアレルギー性の可能性が高い」
「インクを使う時、ペンを持つ手の位置——そこに発疹が集中しています」
「だから、インクが原因だと推測しました」
理路整然とした説明。
論理的で、正確で、無駄がない。
◇
私は、しばらく黙っていた。
認めたくなかった。
二十年の経験を持つ正式な医師が、十一歳の少女に負けた。
その事実が、受け入れられなかった。
でも——
「……正直に言おう」
私は、ゆっくりと口を開いた。
「私は、あなたを批判するつもりで来た」
リーゼは、黙って聞いていた。
「無資格の子供が医療行為を行っている——そう聞いて、憤りを感じていた」
「患者の命を危険にさらす無責任な行為だと、そう思っていた」
「しかし……」
私は、軟膏の瓶を見つめた。
「あなたの診断は、的確だった。これは……正式な医師としての技術だ」
◇
その言葉を言うのは、屈辱だった。
プライドが、ズタズタに引き裂かれた。
でも、嘘はつけなかった。
医師として、事実は認めなければならない。
「あなたには、確かな知識がある」
私は続けた。
「神の啓示であろうと、何であろうと——その知識は本物だ」
私は立ち上がり、深く頭を下げた。
「失礼な態度を取りました。お詫びします」
◇
リーゼも立ち上がり、頭を下げた。
「いえ……ハインリヒ先生の疑問は、当然のことです」
「むしろ、患者の安全を第一に考えるその姿勢こそ、医師として正しいと思います」
その言葉が、胸に響いた。
十一歳の少女に、諭されている。
でも、不思議と嫌な気持ちではなかった。
この少女には、何か——特別なものがある。
◇
私は、診療所を後にした。
馬車に乗り、帰路についた。
道中、ずっと考えていた。
あの少女は、何者なのだろう。
神の啓示——そう言っていた。
信じられないが、他に説明がつかない。
あの知識は、どこから来たのか。
十一歳の子供が、独学で身につけられるものではない。
◇
家に帰ると、妻が待っていた。
「どうでしたか?」
「……負けた」
私は、正直に答えた。
「十一歳の少女に、完璧に負けた」
妻は、驚いた顔をした。
「負けた……?」
「ああ。私の診断を求められて——見事に当てられた」
「しかも、治療法まで的確だった」
私は、ソファに座り込んだ。
「二十年の経験が、何の役にも立たなかった」
◇
妻は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「あなたは、その少女を認めたのですね」
「……認めざるを得なかった」
「事実は、事実だ。嘘はつけない」
「それでいいのではないですか」
妻が、私の隣に座った。
「間違いを認められる——それは、強さです」
「プライドを捨てて、真実を受け入れる——それは、医師として正しいことではないですか」
「……」
「あなたは、負けたのではありません。学んだのです」
◇
妻の言葉が、心に染みた。
学んだ——そうかもしれない。
十一歳の少女から、医学の新しい可能性を学んだ。
私の知らない知識が、まだまだある。
医学は、まだまだ進歩できる。
その事実を、あの少女は教えてくれた。
◇
数日後、軟膏を使い続けた結果——
湿疹は、明らかに良くなっていた。
赤みが引き、かゆみも収まっている。
水疱も、乾燥して消えかけている。
「効いている……」
私は、自分の腕を見つめた。
あの少女の診断は、完璧だった。
治療法も、的確だった。
認めなければならない。
あの少女は、本物だ。
◇
その夜、私は妻に言った。
「もう一度、行ってみようと思う」
「ハイムダル領に?」
「ああ。今度は——批判するためではない」
私は、静かに言った。
「学ぶために」




