第1話 隣町の医師
私の名は、ハインリヒ。
隣町で開業医をしている。
◇
「先生、今日も診療ですか」
朝、妻が声をかけてきた。
「ああ。午前中に三人、午後に五人の予約がある」
「大変ですね」
「これが仕事だからな」
私は、二十年間この町で医師をしてきた。
小さな診療所だが、町の人々に信頼されている。
それが、私の誇りだった。
◇
その日の診療を終えて、夕食の席。
「あなた、聞きました?」
妻が、何か言いたげな顔をしていた。
「何をだ?」
「ハイムダル領のこと」
「ハイムダル領……隣の領地か」
「ええ。そこで、子供が医療行為をしているらしいんです」
「子供……?」
私は、箸を止めた。
「十一歳くらいの少女が、診療所を開いているとか」
「馬鹿な」
私は、即座に否定した。
「十一歳の子供に、医療ができるわけがない」
「でも、噂では——」
「噂は噂だ。信じられない」
◇
しかし、噂は日を追うごとに広まっていった。
「吸収糸」という新しい縫合糸を発明した。
難しい病気を次々と診断している。
患者たちは、みな彼女を信頼している。
「リーゼ・フォン・ハイムダル」
その名前が、頻繁に聞こえるようになった。
「領主の娘らしい」
「でも、ちゃんと患者を治しているって」
「神様からの啓示を受けたとか」
◇
「あなた、また眉間にしわが寄っていますよ」
妻が、心配そうに言った。
「……」
「リーゼ様のこと、気になるのでしょう?」
「気になるというより、怒りを感じている」
私は、正直に言った。
「医師というのは、何年もかけて学ぶものだ」
「解剖学、薬理学、内科学、外科学——」
「それを、十一歳の子供が? 馬鹿にしている」
「……」
「無資格の医療行為は、患者を危険にさらす」
「正式な教育を受けていない人間が、命を預かるなど——」
「許されることではない」
◇
妻は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「あなたは、二十年間、この町で医師をしてきましたね」
「ああ」
「その間、何人の命を救いましたか?」
「……数え切れない」
「そうですね。あなたは、立派な医師です」
妻は、私の手を握った。
「でも、噂が本当かどうかは、見てみなければ分かりませんよ」
「見に行けと言うのか?」
「そうは言っていません」
妻は、微笑んだ。
「ただ、確かめもせずに批判するのは、あなたらしくないと思っただけです」
◇
妻の言葉が、心に引っかかった。
確かめもせずに批判する——それは、医師として正しい態度ではない。
患者を診断する時も、まず観察し、情報を集める。
それが、医学の基本だ。
「……行ってみるか」
私は、決心した。
「え?」
「ハイムダル領に、視察に行く」
「あの少女の診療所を、この目で確かめる」
「そして、もし問題があれば——」
「正式に抗議する」
妻は、少し驚いた顔をした。
そして、頷いた。
「行ってらっしゃい。でも——」
「何だ?」
「先入観を持たずに、見てきてくださいね」
「……分かっている」
◇
数日後、私は馬車でハイムダル領に向かった。
隣の領地——半日ほどの距離だ。
道中、私はずっと考えていた。
十一歳の少女が医療行為をしている。
もし本当なら、危険極まりない。
患者の命を、玩具のように扱っている。
許すわけにはいかない。
◇
ハイムダル領に着いた。
小さな村だが、活気がある。
「すみません、診療所はどこですか?」
「ああ、リーゼ様の診療所ですか」
村人が、親切に教えてくれた。
「あの建物ですよ。毎日、たくさんの患者さんが来ています」
「毎日……」
「ええ。リーゼ様は、本当に素晴らしい方です」
村人の目が、輝いていた。
「私の母も、リーゼ様に救っていただきました」
「……そうですか」
◇
診療所の前に立った。
思っていたより、しっかりした建物だ。
清潔に保たれており、入り口には患者が数人並んでいる。
「……」
中を覗くと、白衣を着た小さな少女が見えた。
銀色の髪を後ろで束ね、真剣な表情で患者と話している。
傍には、中年の女性——薬草師だろうか。
「あれが、リーゼ・フォン・ハイムダル……」
私は、しばらく見つめていた。
確かに、子供だ。
しかし、その立ち居振る舞いは——
どこか、普通の子供とは違っていた。
◇
「よし……」
私は、決心した。
「直接、確かめてみよう」
自分の腕を見た。
実は最近、腕に湿疹ができていた。
かゆみがあり、赤く腫れている。
原因は分からない。
「これを診断させてみよう」
正式な医師である私が、答えを知っている症状を。
もし彼女が間違えれば、それが証拠になる。
やはり、子供に医療は無理だったのだと。
私は、診療所の扉を開けた。




