第10話 小さな医師
翌日から、本格的な治療が始まった。
夜明けと共に、私たちは動き出した。
◇
「経口補水液を、すべての患者に」
リーゼが、指示を出した。
「経口補水液……初めて聞く言葉だ」
私が言うと、リーゼは説明を始めた。
「下痢や嘔吐で失われた水分と塩分を、効率よく補給するための飲み物です」
「作り方は簡単です。水一リットルに、塩を小さじ半分、砂糖を大さじ四杯」
「塩と砂糖を混ぜるだけ……?」
「はい。砂糖は、腸からの水分吸収を助けます。塩は、失われた電解質を補います」
「電解質……」
聞いたことのない言葉だった。しかし、リーゼの説明には確信があった。
「それを、少しずつ飲ませてください。一度に大量に飲ませると、吐いてしまいます」
「分かりました」
マルタが、頷いた。
「私も手伝います」
私も、治療に加わった。
◇
患者の家を、一軒一軒回った。
狭い路地を歩き、戸をたたき、患者の容態を確認する。
「これを、飲んでください」
「何ですか、これは……」
患者は、弱々しい声で聞いた。顔は青ざめ、目はくぼんでいる。
「体力を回復させる水です。少しずつ、飲んでください」
弱った患者に、経口補水液を飲ませる。
「しょっぱい……甘い……変な味だ……」
「でも、飲んでください。これが、あなたを救います」
最初は半信半疑だった患者たちも——
数時間後には、顔色が良くなっていった。
「本当だ……楽になってきた……」
「喉の渇きが、和らいできた……」
「良かった……」
リーゼが、ほっとしたように笑った。
「効いていますね」
「ああ……信じられない」
私は、その効果に驚いていた。
ただの塩水と砂糖水——それだけで、患者が回復していく。
◇
重症の患者には、根気強い看護が必要だった。
「先生、この患者さんは重症です」
リーゼが、私を呼んだ。
「脱水が進んでいます。少しずつ、何度も飲ませましょう」
「分かった」
私たちは、交代で患者の傍につき、スプーンで少しずつ経口補水液を飲ませた。
一口、また一口。
気の遠くなるような作業だった。
◇
数時間後、患者の顔色が良くなっていた。
「意識が、戻ってきました」
マルタが、嬉しそうに言った。
「良かった……」
リーゼが、ほっとしたように息をついた。
「根気よく続けることが、大切なのですね」
私は、頷いた。
「そうだ。派手な治療法ではない。だが、確実に効いている」
◇
治療は、順調に進んでいった。
井戸を封鎖したことで、新たな感染者は激減した。
二日目には、新規感染者はわずか二人。三日目には、ゼロになった。
「感染経路を断ったのだ……」
私は、その事実に感動していた。
経口補水液で、軽症患者は回復し始めた。
「先生、この患者さんは意識がもうろうとしています」
リーゼが、一人の重症患者を診ていた。
「脱水がかなり進んでいます」
「どうする?」
「根気強く飲ませ続けるしかありません。もっと頻繁に、もっと少量ずつ」
リーゼは、患者の唇を濡らすように、ほんの少しずつ経口補水液を含ませた。
何時間も、つきっきりで。
「……顔色が、良くなってきました」
私は、驚きを隠せなかった。
「リーゼの言った通りだ」
◇
四日目。
町の雰囲気が、変わり始めた。
「先生、ありがとうございます」
「リーゼ様、本当にありがとう」
患者たちが、感謝の言葉を口にするようになった。
「あの子は、神様の使いかもしれない」
「小さいのに、すごい子だ」
リーゼは、照れくさそうに笑っていた。
「皆さんが回復してくれて、良かったです」
◇
その夜、私はリーゼと二人で話をした。
町長の屋敷の一室。窓の外には、静かな夜が広がっている。
「リーゼ」
「はい」
「なぜ、医師を目指した?」
「……」
リーゼは、しばらく黙っていた。その表情には、何か深い思いがあるようだった。
「目覚めた時、頭の中にたくさんの知識がありました」
「目覚めた時……?」
「十歳の時、高熱で倒れて、三日間眠り続けました」
「……」
「目覚めた時には、すべてが変わっていました」
「医学の知識が」
「はい。解剖学、生理学、薬理学——すべてが、頭の中にありました」
「それは……」
「最初は、怖かったです」
「怖かった?」
「自分が、自分でなくなったような気がして」
リーゼの目が、遠くを見つめていた。
「以前の自分と、今の自分。どちらが本当の自分なのか——」
「……」
「分からなくなることがありました」
私は、黙って聞いていた。
この少女は、想像以上に重いものを背負っている。
「でも——」
「でも?」
「この知識で、人を救えると思いました」
「……」
「苦しんでいる人を、助けられる」
「死にそうな人を、救える」
「そう思った時——」
リーゼが、私を見た。
「この知識を、使おうと決めました」
「だから、医師になろうと思ったんです」
◇
「君は、強いな」
私は、言った。
「え?」
「普通なら、その知識を隠して生きるだろう」
「……」
「でも、君は医師になる道を選んだ」
「はい」
リーゼが、頷いた。
「隠して生きることも、考えました」
「でも、それでは——」
「救える命を、救えない」
「……」
私は、胸が熱くなった。
「君は、本当にすごい子だ」
リーゼが、照れくさそうに笑った。
「先生も、すごいです」
「私は……」
「20年以上、改革を目指してきたんですよね」
「……」
「諦めずに、戦い続けてきた」
「それは——」
「私、尊敬します」
リーゼの目が、真剣だった。
「先生のような人がいるから、私も頑張れます」
◇
リーゼの言葉が、心に染みた。
「ありがとう……」
私は、小さく言った。
「君と出会えて、本当に良かった」
25年間、一人で戦ってきた。
誰にも理解されず、教会に押さえつけられ、改革は進まなかった。
でも、今——
目の前に、同じ志を持つ者がいる。
「私も、です」
リーゼが、微笑んだ。
「先生のような方がいると知って、勇気が出ました」
「私が?」
「はい。この世界にも、真実を理解してくれる人がいる」
「私の知識を、信じてくれる人がいる」
リーゼの目に、涙が光った。
「ずっと、一人だと思っていました」
「私も、同じだ」
私は、苦笑した。
「20年以上、孤独だった」
「でも、今は違う」
リーゼが、頷いた。
「先生と一緒に、この町を救いましょう」
「ああ。必ず、救おう」
私たちは、固く頷き合った。
窓の外では、星が静かに輝いていた。
この出会いは、偶然ではないのかもしれない。
運命が、私たちを引き合わせたのだ。




