第8話 諦めと転機
疫病の報告を聞いた私は、すぐに決断した。
「私が行く」
◇
「院長代理自らが……?」
使いの者が、驚いた顔をした。
「現場を知らなければ、何も分からない」
私は、立ち上がった。
「準備をしろ。すぐに出発する」
「はい……」
◇
正直に言えば、逃げたかったのかもしれない。
医学院での行き詰まり。
改革の失敗。
教会からの圧力。
すべてから、逃げ出したかった。
「せめて、現場で患者を救おう」
それだけが、私に残された道だと思った。
◇
馬車で三日。
長い道のりだった。途中、何度も不安がよぎった。
本当に私が行って、何かできるのか。
また無力さを思い知らされるだけではないのか。
しかし、行かないわけにはいかなかった。
◇
隣国との国境近くの町に着いた。
「ひどい……」
町に入った瞬間、私は言葉を失った。
通りには人影がない。
かつては活気があったであろう商店街が、静まり返っている。
家々の窓は閉ざされ、時折、咳き込む声や呻き声だけが聞こえてくる。
汚水が道に流れ、悪臭が漂っている。ハエが飛び交い、野良犬が徘徊している。
「これは……」
私は、馬車を降りて周囲を見回した。
衛生状態が、最悪だ。これでは病気が蔓延するのも無理はない。
◇
町長が、出迎えてくれた。
「先生、よく来てくださいました」
老人は、疲れ切った顔をしていた。目の下には深い隈があり、髪は乱れている。眠れない日が続いているのだろう。
「状況を教えてくれ」
「はい……」
町長が、説明を始めた。声が震えている。
「二週間ほど前から、高熱と下痢の患者が増え始めました」
「最初は数人でしたが、あっという間に広がって……」
「今では、感染者は百人を超え、死者も三十人以上です」
「三十人……」
私は、眉をひそめた。
この町の人口は、おそらく千人程度。三十人というのは、三十人に一人が死んだということだ。
「原因は分かるか?」
「分かりません……」
町長が、首を振った。
「教会に祈りを捧げましたが、効果はありませんでした」
「神の罰だと言う者もいます。町の者が罪を犯したのだと」
「……」
神の罰などではない。必ず原因がある。
感染症には、必ず感染経路がある。それを断てば、拡大を止められるはずだ。
しかし、それを特定する方法が——
◇
私は、町長の家を拠点にして、患者の診察を始めた。
「高熱、激しい下痢、嘔吐……」
症状は、水系感染症の典型だった。
「おそらく、汚染された水が原因だ」
私は、そう推測した。
しかし、どの水源が汚染されているのか——
特定する術がなかった。
◇
三日目。
私は、疲労と絶望に押しつぶされそうだった。
「くそっ……」
一人になった時、拳を握りしめた。
「また、救えないのか」
「また、無力なのか」
母を亡くした時と、同じだ。
何もできない。何も変えられない。
「私は、何のために医師になったのだ……」
◇
その時だった。
「先生、お客様です」
町長が、私を呼びに来た。
「ハイムダル領から来たと言っています」
「ハイムダル領……?」
隣の領地からの応援だろうか。
私は、町長と共に玄関へ向かった。
◇
そこにいたのは——
「……」
私は、目を疑った。
白衣を着た、小さな少女がいた。
年齢は、十二歳くらいだろうか。銀色の髪を後ろで束ね、紫色の瞳が真剣な光を湛えている。
その佇まいは、子供とは思えないほど落ち着いていた。
傍には、中年の女性と、若い騎士風の男がいた。女性は薬草を詰めた鞄を持ち、男性は剣を帯びている。
「初めまして」
少女が、私に向かって丁寧に頭を下げた。
「リーゼ・フォン・ハイムダルと申します」
◇
「ハイムダル……領主の娘か?」
私は、驚いて聞き返した。
ハイムダル領は、隣の領地だ。なぜ、領主の娘がこんなところに。
「はい。こちらは薬草師のマルタさん」
少女は、落ち着いた声で紹介した。
「そして、兄のエーリヒです。護衛として同行してくれています」
「お初にお目にかかります」
薬草師の女性が、会釈した。年齢は五十代くらいか。経験を積んだ雰囲気がある。
「隣町で疫病が発生したと聞いて、お手伝いに参りました」
「手伝い……?」
私は、困惑した。
「失礼だが、君はまだ子供だ。こんな危険な場所に——」
「私には、医学の知識があります」
少女——リーゼが、私を真っ直ぐに見つめた。
その目には、子供とは思えない深い知性があった。まるで、何十年も生きてきた者のような。
「この疫病の原因と対策について、心当たりがあります」
「心当たり……?」
「はい。お力になれると思います」
その言葉には、確信があった。
◇
「十二歳の天才医師だとか」
町長が、私に耳打ちした。
「噂は聞いています。ハイムダル領で評判の少女だと」
「何人もの患者を救ったとか」
「天才医師……?」
私は、半信半疑だった。
十二歳の子供に、何ができるというのか。
私は40年以上生きてきて、20年以上医学を学んできた。それでも分からないことばかりだ。
十二歳の少女に、この疫病が止められるとは思えなかった。
しかし——
あの目は、嘘をついていない。
何か、普通ではない雰囲気を感じた。
まるで——ゼンメルワイスの著書を読んだ時のような。
真実を知る者の目だ。
◇
「……分かった」
私は、決断した。
今の私には、選択肢がない。
一人では、この疫病を止められない。どんな助けでも、受け入れる必要がある。
「君の話を、聞かせてくれ」
「ありがとうございます」
リーゼが、微笑んだ。
その笑顔は、年相応の少女のものだった。無邪気で、温かい。
しかし、次の瞬間——
「まず、状況を教えてください」
表情が一変した。
「症状は? 発症から死亡までの期間は?」
「発生時期は? 最初の患者はどこに住んでいましたか?」
「水源の状態は? 井戸は何箇所ありますか?」
てきぱきと質問を始める姿は、熟練の医師のようだった。
いや、それ以上だ。
私が思いつかなかった質問を、次々と投げかけている。
「水源の状態……?」
私は、その質問に注目した。
なぜ、この少女は水源のことを聞くのだ。
「はい。この病気は、おそらく汚染された水を通じて広がっています」
リーゼが、説明を始めた。
「原因を特定するには、まず水源を調べる必要があります」
「汚染された水……」
ゼンメルワイスの理論。目に見えない生き物。そして、感染経路。
この少女は——何かを知っている。
◇
私は、この少女に——
希望を見出した。
25年間、一人で戦い続けてきた。
教会の圧力に耐え、保守派の反対を受け、孤独に苦しんできた。
しかし、今——
目の前に、理解者がいるかもしれない。
それはまだ、小さな光だった。
しかし、長い闘いの中で——
初めて感じた、本当の希望だった。
「リーゼ」
私は、少女の名前を呼んだ。
「はい」
「一緒に、この町を救おう」
「はい、先生」
リーゼが、真剣な目で頷いた。
その瞬間、私は確信した。
何かが、変わり始めている。




