第7話 改革の壁
院長代理となって、五年が過ぎた。
私は40歳になり、改革は——何も進んでいなかった。
母を亡くしてから、25年。医師になってから、18年。
振り返れば、長い道のりだった。しかし、目標にはまだ遠い。
◇
会議室は重苦しい空気に包まれていた。
「この提案も、否決です」
私の改革案が、また退けられた。
「衛生管理の徹底を義務化する案ですが……」
私は、資料を手に説明を続けた。
「診察前後の手洗い。器具の消毒。清潔な環境の維持。これらを義務化することで——」
「教会が、認めないでしょう」
保守派の教授が、私の言葉を遮った。冷たい目で、私を見ている。
「病気は神の試練です。手を洗えば防げるなど、神への冒涜です」
「しかし、実際に効果があるのです」
「ゼンメルワイスの例がありますが——」
「あの男は狂人です」
別の教授が、吐き捨てるように言った。
「異端の烙印を押されて死んだ。同じ轍を踏むおつもりですか」
「証明できますか? 科学的に」
「……」
私は、黙り込んだ。
証明するには、データが必要だ。しかし、データを取ること自体が認められていない。
堂々巡りだ。何年も、同じことを繰り返している。
◇
「ヴィルヘルム先生」
会議の後、若い教授が声をかけてきた。
「先生のお考えは、正しいと思います」
「……」
「でも、今は無理です。教会の力が強すぎます」
「分かっている」
私は、ため息をついた。
「だが、このままでは——」
「患者が死に続けます」
若い教授は、黙って頷いた。
◇
その夜、私は一人で書斎にいた。
机の上には、何年もかけて集めた資料が積まれている。
感染症の症例。治療法の記録。ゼンメルワイスの著書。
「何度読んでも、この人の考えは正しいと思う」
私は、呟いた。
「目に見えない小さな生き物が、病気の原因——」
「それを防ぐには、衛生管理が重要——」
「なぜ、誰も理解しないのだ」
◇
40歳になって、私は疲れていた。
18年間、医師として働いてきた。
患者を救い、学生を教え、改革を訴え続けてきた。
しかし、この国の医学は何も変わらない。
瘴気説が信じられ、衛生管理は軽視され、患者は救えるはずの病で死んでいく。
改革を志して、もう20年以上になる。
「母を亡くしてから、ずっと——」
私は、窓の外を見つめた。
夕暮れの空が、赤く染まっている。
「何一つ、変えられていない」
医学院の学生たちは、私の授業を熱心に聞いてくれる。
しかし、卒業すれば、彼らも保守的な医学の中に埋もれていく。
「結局、一人で戦っているだけだ」
孤独が、肩にのしかかった。
◇
ある日、保守派の教授から呼び出された。
「ヴィルヘルム先生」
「何でしょうか」
「最近の先生の言動について、教会から問い合わせがありました」
「……」
「異端的な考えを広めているのではないか、と」
私は、息を呑んだ。
「何のことでしょうか」
「とぼけないでください」
教授の目が、冷たかった。
「目に見えない生き物が病気の原因だとか、衛生管理で病気を防げるとか——」
「それは——」
「これ以上続けるなら、教会に報告します」
「……」
「院長代理の地位も、剥奪されるでしょう」
◇
私は、追い詰められていた。
「今の地位を失えば、改革の機会も失う」
「しかし、沈黙を続ければ、患者は死に続ける」
どちらを選ぶべきなのか。
答えは出なかった。
◇
41歳の冬。
私は、ほとんど諦めかけていた。
「もう、疲れた……」
一人で呟いた。
「20年以上、戦い続けてきた」
「でも、何も変わらない」
「このまま、終わるのだろうか」
窓の外では、雪が静かに降っていた。
◇
その年の終わり、父が亡くなった。
実家から急報が届いた。馬車を飛ばして、何とか間に合った。
「ヴィルヘルム……」
父は、ベッドの上で私を待っていた。
髪は完全に白くなり、顔には深い皺が刻まれていた。母が亡くなった後、一人で私を支え続けてくれた父。
「来てくれたか……」
「父上。お加減は……」
「もう、長くはない。分かっている」
父が、私の手を握った。
「お前は、立派な医師になった」
「父上……」
「首席で卒業し、院長代理にまでなった。母も、喜んでいるだろう」
「……」
「だが、心配なこともある」
父の目が、私を見つめた。
「お前は、自分を追い詰めすぎている」
「父上……」
「無理をするな。お前が倒れたら、母も悲しむ」
父の声が、弱々しくなった。
「お前の身体も、心も、心配だ」
「大丈夫です、父上」
「そうか……」
父は、静かに目を閉じた。
「……お母さんのところに、行けるな……」
「父上!」
「……頼むぞ……ヴィルヘルム……」
父の手が、力を失った。
「父上……!」
私は、父の手を握り続けた。冷たくなっていく手を。
◇
父を看取った後、私は実家の庭に出た。
母が好きだった薔薇が、冬枯れの中で眠っている。
「お父様……お母様……」
空を見上げた。星が、静かに瞬いている。
「私は、まだ約束を果たせていません」
「改革は進まず、教会に押さえつけられています」
「でも——」
涙が、頬を伝った。
「諦めてはいません」
「二人が見守ってくれている限り——」
「いつか、必ず——」
しかし、その「いつか」がいつ来るのか——
もう分からなくなっていた。
41歳の私は、疲れ果てていた。
◇
42歳の春。
私は、完全に諦めかけていた。
父の死から、半年が過ぎていた。
両親を失い、改革も進まず、孤独な日々が続いていた。
会議での改革案は、すべて否決される。
教会からの圧力は、日増しに強くなる。
味方は少なく、敵は多い。
フランツは遠い地方にいて、簡単には会えない。
老院長も、父母も、もういない。
私を理解してくれる人は、誰もいなかった。
「もう、やめようか……」
ある夜、一人で書斎にいた時、そんな考えが頭をよぎった。
「このまま、平穏に暮らした方がいいのではないか」
「改革など、諦めた方が——」
机の上には、ゼンメルワイスの本がある。何度も読み返した、あの本。
「あなたも、こうして諦めかけたことがあったのでしょうか」
本に向かって、呟いた。
「それでも、戦い続けた。最後まで」
「私には……できるのでしょうか」
答えは、返ってこなかった。
◇
ある日、窓の外をぼんやりと眺めていた。
春の日差しが、暖かい。
「私は、何のために生きているのだろう」
ふと、そんなことを考えた。
母を救えなかった悔しさ。医師になった理由。改革への情熱。
すべてが、遠い過去のことのように感じられた。
「疲れた……」
呟いた。
その言葉が、重くのしかかった。
◇
そんな時だった。
「院長代理、緊急の報告です」
使いの者が、駆け込んできた。息を切らしている。
「隣国との国境近くの町で、疫病が発生しました」
「疫病……」
私の顔色が、変わった。
「詳しく聞かせろ」
「はい。二週間ほど前から、高熱と下痢の患者が増え始めたそうです」
「死者は?」
「すでに三十人以上と……」
三十人。小さな町にとっては、壊滅的な数字だ。
「医師は派遣されているのか」
「いいえ、まだ……危険すぎると、誰も行きたがらないようで……」
私は、立ち上がった。
「私が行く」




