第6話 教授への道
30歳になった時、私は転機を迎えた。
「ヴィルヘルム。王立医学院から、招聘が来ている」
病院長が、手紙を見せてくれた。
「医学院に戻って、教鞭を取らないかという話だ」
「私が……教授に?」
「お前の評判は、医学院にも届いている。若いが優秀だとな」
病院長が、微笑んだ。
「どうする?」
私は、少し考えた。
臨床医として患者を救うのも大切だ。しかし、教育者として次の世代を育てることも重要ではないか。
「お受けします」
私は、決断した。
「私が学んだことを、次の世代に伝えたい」
◇
医学院に戻った私は、准教授として働き始めた。
久しぶりに見る学び舎。
八年ぶりの講堂。変わらない石造りの建物。回廊に飾られた肖像画。
学生たちの若い顔。真剣な眼差し。ノートを取る手。
「あの頃の私と、同じ目をしている」
私は、彼らに希望を見た。
「先生、質問があります」
講義の後、一人の学生が残った。
「何だ」
「感染症の原因について、先生はどうお考えですか」
鋭い質問だった。この学生は、何かを感じ取っているのだろう。
「公式には、瘴気が原因とされている」
「公式には……ですか」
「ああ。だが——」
私は、少し考えた。
「常に疑問を持つことが大切だ。既存の知識を鵜呑みにするな」
学生の目が、輝いた。
「はい、先生」
こういう学生がいる限り、希望はある。
◇
しかし、すぐに壁にぶつかった。
「ヴィルヘルム先生、その教え方は……」
先輩教授が、眉をひそめた。
「学生に、批判的思考を促すのは結構ですが、あまり既存の医学を否定するような発言は控えていただきたい」
「しかし、今の医学には限界があります。それを認めなければ——」
「それは、教会の教えに反する可能性があります」
先輩教授の声が、厳しくなった。
「我々は、教会との関係も大切にしなければならない」
私は、黙り込んだ。
教会——この国では、教会の権威は絶大だった。医学も、教会の教えに反することはできない。
「分かりました……」
私は、頭を下げた。
しかし、心の中では納得していなかった。
◇
それでも、私は自分の信念を捨てなかった。
表立っては言えないが、信頼できる学生には本当のことを教えた。
「今の医学には、分からないことが多い」
「だから、常に疑問を持ち、探求し続けることが大切だ」
「既存の知識に満足するな。新しい発見を恐れるな」
一部の学生は、私の言葉に共感してくれた。
「ヴィルヘルム先生の授業は、他の先生とは違います」
「本当のことを教えてくれる」
その言葉が、私の支えだった。
◇
33歳の時、老院長から呼び出された。
「ヴィルヘルム、来なさい」
「はい」
老院長の部屋に入ると、窓際に立つ背中が見えた。
「座りなさい」
私は、椅子に座った。
老院長が、振り返った。
「お前のことは、よく見ている」
「……」
「保守派の教授たちとの軋轢も、知っている」
「申し訳ありません」
「謝るな」
老院長が、首を振った。
「私も、昔は同じだったからな」
◇
「同じ……ですか」
「ああ」
老院長が、椅子に座った。
「私も若い頃は、医学を変えたいと思っていた」
「しかし、教会との軋轢を恐れて、妥協してきた」
老院長の目に、後悔の色があった。
「お前には、同じ轍を踏んでほしくない」
「院長……」
「だが、時を待て」
老院長が、私を見た。
「今は、まだ早い。もっと力をつけ、人脈を広げろ」
「そして、機が熟したら——」
「お前に、改革を任せたい」
◇
その言葉に、私は胸が熱くなった。
「院長……ありがとうございます」
「礼を言うのは早い」
老院長が、立ち上がった。
「私は、もう長くない。後を継ぐ者を探していた」
「……」
「お前なら、と思っている」
「私が、院長の後を……」
「まだ先の話だ。だが、心に留めておけ」
老院長は、窓の外を見つめた。
「この医学院を、頼むぞ」
◇
35歳の時、私は院長代理に任命された。
「お前に、医学院の運営を任せたい」
老院長が、正式に発表した。
「私は、もう引退する時が来た」
「院長……」
「お前なら、できる」
老院長の目が、私を見つめていた。
「この国の医学を、変えてくれ」
「……はい」
私は、深く頭を下げた。
「お任せください」
◇
院長代理として、改革を始めようとした。
まず提案したのは、手洗いの徹底だった。
「患者を診察する前と後に、必ず手を洗うことを義務づけたい」
「なぜです?」
「手に付着した何かが、感染症を広げる可能性がある」
「何かとは?」
「まだ、分かりません。しかし、手洗いで産褥熱が減った事例があります」
「ゼンメルワイスですか。あの異端の」
教授たちの目が、冷たくなった。
「この改革案は、認められません」
保守派の教授たちが、次々と反対した。
「教会からの批判を受ける可能性があります」
「瘴気が病気の原因です。それが公式見解です」
「前例がありません」
「リスクが高すぎます」
どんな提案も、否決された。
次に提案したのは、解剖実習の増加だった。
「人体の構造を理解するには、より多くの解剖実習が必要です」
「死体を切り刻むことは、神への冒涜です」
「しかし、医学の発展には——」
「却下です」
何を言っても、壁にぶつかった。
「……」
私は、歯を食いしばった。
——なぜ、分かってくれないのだ。
——患者を救うためなのに。
◇
37歳の時、老院長が亡くなった。
病は、急速に進行した。
「院長、お加減はいかがですか」
「もう、長くはないな……」
老院長が、弱々しく笑った。
「だが、後悔はない」
「院長……」
「お前に、出会えたからな」
老院長の手が、私の手を握った。
「ヴィルヘルム……後は、頼んだぞ……」
「院長!」
「この医学院を……この国の医学を……変えてくれ……」
最期の言葉だった。
「院長……!」
私は、老院長の手を握った。骨と皮だけになった、細い手。
母を看取った時と、同じだ。
「必ず、お約束を果たします」
「ああ……頼む……」
老院長は、静かに息を引き取った。
穏やかな顔だった。苦しみから解放されたように。
◇
葬儀には、多くの人が参列した。
教授たち。学生たち。卒業生たち。
老院長は、多くの人に慕われていた。
「あの方は、本当に素晴らしい院長でした」
「医学院の発展に、大きく貢献されました」
人々が、口々に言った。
しかし、私は知っていた。
老院長の心には、後悔があったことを。
「若い頃は、医学を変えたいと思っていた」
「しかし、妥協してきた」
あの言葉を、忘れない。
◇
葬儀の後、私は一人で夜空を見上げた。
医学院の庭。老院長と何度も語り合った場所。
「院長……」
呟いた。
「私は、まだ何も変えられていません」
「改革は、進んでいません」
「でも——」
私は、拳を握りしめた。
「諦めません」
「あなたの後悔を、繰り返しません」
「必ず、約束を果たします」
「この国の医学を、変えてみせます」
星が、静かに瞬いていた。
老院長の魂が、見守っているように。
37歳。私は、院長の座を継いだ。
これからが、本当の戦いだ。




