第5話 王都の医師
医師になって、五年が過ぎた。
私は27歳になり、王都の病院で日々患者と向き合っていた。
◇
王都中央病院——この国で最も大きな病院。
朝から晩まで、患者が絶えない。貴族から平民まで、あらゆる人がここに運ばれてくる。
私は、この病院の内科医として働いていた。
毎日、何十人もの患者を診る。傷病、感染症、慢性病——症状は様々だ。
「ヴィルヘルム先生、お疲れですか?」
同期のフランツが、声をかけてきた。
「いや、大丈夫だ」
「嘘つけ。目の下に隈ができてるぞ」
フランツは、笑いながら言った。
「真面目なのは学生時代から変わらないな。たまには休め」
「患者がいる限り、休めない」
「だから、お前は老けるんだ」
フランツは肩をすくめて去っていった。
◇
「ヴィルヘルム先生、次の患者です」
助手が、カルテを持ってきた。
「ありがとう」
私は、カルテに目を通した。
40代男性。高熱、咳、血痰——結核の疑い。
胸が、重くなった。結核——この病名を見るたびに、無力感が押し寄せる。
「入ってください」
患者が、診察室に入ってきた。顔色が悪く、頬がこけている。痩せ細った体。目には、不安の色が浮かんでいた。
「いつから、症状が?」
「一ヶ月ほど前からです……」
男性が、弱々しく答えた。
「最初は、ただの風邪だと思っていました……でも、咳が止まらなくて……」
「血が混じったのは、いつから?」
「三日前からです……それで、怖くなって……」
私は、聴診器を当てた。肺から、異常な音が聞こえる。湿った音。病魔が巣食っている証拠だ。
「……結核ですね」
「けっ……かく……」
男性の顔が、青ざめた。
「死ぬんですか……先生、正直に教えてください」
「まだ、諦めるには早い」
私は、できる限り穏やかな声で言った。
「安静にして、栄養を取れば、回復の可能性はあります」
「本当ですか……」
「嘘は言いません。可能性は、ゼロではない」
男性の目に、わずかな希望が灯った。
「先生……お願いします……」
「家族は?」
「妻と、子供が三人います……まだ小さいんです……」
私は、胸が締め付けられた。
しかし、心の中では分かっていた。
この段階では、助かる見込みは低い。
◇
結核——この病は、この国で多くの命を奪っていた。
原因は分からない。治療法も確立されていない。ただ、安静と栄養を勧めるしかない。
「くそっ……」
診察室を出た後、私は廊下で拳を握りしめた。
なぜ、救えない。なぜ、治療法がない。
さっきの患者——あの目を忘れられない。「お願いします」と言った時の、すがるような目。
私は、嘘をついた。「可能性はゼロではない」と。
確かに嘘ではない。奇跡的に回復する患者もいる。
だが、あの症状なら——もって半年だろう。
三人の子供は、父親を失う。
「ヴィルヘルム」
フランツが、声をかけてきた。
「結核患者か」
「ああ……」
「また、考え込んでるな」
「仕方ないだろう。救えないんだから」
フランツは、ため息をついた。
「お前は、背負いすぎなんだ。全員を救おうとするな」
「それでも——」
「俺たちは医者だ。神じゃない」
分かっている。分かっているのだ。
でも、諦められない。
◇
五年間で、多くの患者を診てきた。
救えた命もあれば、救えなかった命もある。
子供を亡くした母親の泣き声。
「なぜ、助けられなかったの!」
妻を失った夫の絶望。
「一緒に帰るはずだったのに……」
息子を亡くした老父の沈黙。
何も言わず、ただ涙を流していた。
それらが、私の心に積み重なっていく。夜、眠れないこともある。患者の顔が、浮かんでくるから。
「もっと、できることはないのか」
毎晩、自問した。
医学書を読み漁った。何か、見落としていることはないか。
しかし、答えは見つからなかった。
今の医学には、限界がある。その壁は、あまりにも高かった。
◇
ある夜、古い医学書を読んでいた時、改めてあの記述に目を留めた。
「目に見えない小さな生き物が、病気の原因である」
ゼンメルワイス。160年前の医学者。
学生時代に見つけた、あの言葉。
「この人の考えは、正しいのではないか」
私は、ずっとそう思っていた。
手を洗うことで、産褥熱が減った——その事実は、何かを示唆している。
「目に見えない生き物……」
もしそれが本当なら、感染症を防ぐ方法があるはずだ。
治療法も、見つかるかもしれない。
◇
しかし、この考えを口にすることは危険だった。
「瘴気が病気の原因だ」
それが、この国の公式見解。
教会も、その考えを支持している。
「神が創りたもうた世界に、目に見えない悪しき生き物がいるはずがない」
そう言われれば、反論できない。
私は、沈黙を強いられていた。
◇
27歳の秋。
木の葉が色づき始めた頃、私の元に一人の患者が運ばれてきた。
「先生……妻が……」
若い夫が、泣きながら訴えた。まだ二十歳そこそこだろう。顔は青ざめ、目は充血していた。
「出産の後から、熱が下がらないんです……」
私は、すぐに診察室に案内した。
担架に横たわった女性は、顔が真っ赤に上気していた。額に手を当てると、火のように熱い。
「いつ、出産を?」
「三日前です……最初は元気だったんです……でも、昨日から急に……」
産褥熱だった。
出産後の女性を襲う、恐ろしい病。この病院でも、何人もの産婦が命を落としている。
「奥さん、聞こえますか」
私が呼びかけると、女性がうっすらと目を開けた。
「先生……子供は……」
「赤ちゃんは元気ですよ。あなたも、必ず良くなります」
女性は、かすかに微笑んだ。
「早く……抱っこしたいです……」
その言葉が、胸に突き刺さった。
「すぐに処置を」
私は、できる限りのことをした。解熱の薬草を煎じて飲ませ、体を冷やし、栄養のある食事を与えた。
しかし、熱は下がらなかった。
◇
二日目。
女性の容態は、さらに悪化していた。
「あなた……赤ちゃんを……見せて……」
「駄目だ、今は安静にしないと」
「お願い……一目だけ……」
夫が、涙をこらえながら赤ん坊を連れてきた。
女性は、震える手で赤ん坊の頬に触れた。
「可愛い……私の子……」
その目から、涙がこぼれた。
「元気に……育ってね……」
私は、その光景を見ていられなかった。
◇
三日目の朝。
女性は、静かに息を引き取った。
「なぜ……なぜですか……」
夫が、泣き崩れた。
「子供が生まれたばかりなのに……」
「……申し訳ありません」
私は、頭を下げた。
「力が及びませんでした」
それしか、言えなかった。
夫は、妻の亡骸にすがりついて泣いた。
「約束したんだ……三人で幸せになろうって……」
赤ん坊が、泣き声を上げた。母親の温もりを求めて。
私は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
◇
その夜、私は一人で研究室に籠もっていた。
机の上には、ゼンメルワイスの著作が開かれている。何度も読み返したページ。
「ゼンメルワイスは、手を洗うことで産褥熱を防いだ」
私は、声に出して確認した。
「つまり、手に付いた何かが、病気を引き起こす」
「目に見えない小さな生き物——」
もしその理論が正しければ、今日亡くなったあの女性も救えたかもしれない。
「あなた……赤ちゃんを……見せて……」
あの言葉が、耳から離れない。
「なぜ、この考えが認められないのだ」
私は、拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。
「正しいことを言っても、誰も聞かない」
「このままでは、同じ悲劇が繰り返される」
窓の外では、星が冷たく輝いていた。
ゼンメルワイスは、160年前に真実を見つけた。しかし、誰にも信じてもらえず、狂人扱いされて死んだ。
私も、同じ運命を辿るのだろうか。
——いや。
私は、首を振った。
同じことを繰り返すわけにはいかない。
ゼンメルワイスは、証拠を示せなかった。「手を洗えば病気が減る」という事実だけでは、人々を納得させられなかった。
なら、私は証拠を見つける。
目に見えない生き物の存在を、誰もが認めざるを得ない形で証明する。
◇
その時、私は決意した。
「いつか、必ず——」
「この国の医学を、変えてみせる」
「目に見えない生き物の存在を、証明してみせる」
「そして、救える命を増やしてみせる」
あの女性のためにも。
あの夫のためにも。
母親の顔を知らずに育つ、あの赤ん坊のためにも。
その決意は、私の心に深く刻まれた。
蝋燭の炎が揺れている。ゼンメルワイスの本の上に、私の影が落ちていた。
しかし、それを実現するには——
まだ、長い道のりが必要だった。
27歳の秋。私の戦いは、ここから始まった。




