第4話 卒業の誓い
22歳の春——私は、医学院を卒業した。
晴れ渡った空。桜が、満開だった。
母が亡くなってから、七年。あの日の誓いを胸に、ここまで歩いてきた。
◇
卒業式は、医学院の大講堂で行われた。
古い石造りの建物。高い天井。ステンドグラスから、春の光が差し込んでいる。
教授たちが壇上に並び、卒業生たちが整列している。
「諸君は、今日から医師となる」
学長の挨拶が始まった。
「命を預かる責任を、忘れるな」
「患者のために、全力を尽くせ」
厳かな空気の中、一人一人の名前が呼ばれていく。
そして——
「ヴィルヘルム・フォン・シュタイナー」
私の名前が呼ばれた。
「首席」
周囲から、拍手が起こった。大きな拍手。四年間の努力が、認められた瞬間だった。
私は、壇上に上がり、卒業証書を受け取った。
「おめでとう」
老教授が、微笑んだ。その目には、期待の色が浮かんでいた。
「ありがとうございます」
私は、深く頭を下げた。
——お母様。私は、やりました。
◇
「さすがだな、ヴィルヘルム」
式の後、フランツが声をかけてきた。
中庭の桜の下。四年間、何度もここで語り合った場所だ。
「首席卒業か。俺は中の上がやっとだったのに」
「成績は関係ない。大事なのは、患者を救えるかどうかだ」
「相変わらず真面目だな」
フランツが、笑った。
「お前も、よく頑張った」
私は、友人の肩を叩いた。
「これからが、本番だ」
「ああ。俺は地方の診療所に行くことになった」
「そうか。どこだ?」
「南部の村だ。田舎だが、医者が足りなくて困っているらしい」
「お前らしい選択だ」
「そうか?」
「困っている人のところに行く。それが医者だろう」
フランツが、照れくさそうに頭をかいた。
「お前は、王都に残るんだろ?」
「ああ。王都中央病院で働く」
「出世コースだな」
「そういうわけじゃない」
◇
フランツが、私を見た。その目が、真剣になった。
「お前、まだ諦めてないんだな」
「何を?」
「医学を変えるってこと。ゼンメルワイスの理論を証明するってこと」
「……」
私は、黙った。
フランツは、私の考えを知っている。四年間、ずっと見てきた。
「気をつけろよ。教会に睨まれたら、終わりだ」
「分かっている」
「真実を語って潰された奴は、ゼンメルワイスだけじゃない」
「分かっている」
「でも、やるんだろ?」
「……ああ」
私は、頷いた。
「やらなければならない。母のためにも、救えなかった患者たちのためにも」
フランツが、ため息をついた。
「本当に、お前は頑固だな」
「悪い癖だ」
「でも——」
フランツが、微笑んだ。
「そこが、お前らしい。応援してる」
「ありがとう、フランツ」
私たちは、固く握手を交わした。
◇
卒業式の後、教授室に呼ばれた。
「ヴィルヘルム、来なさい」
指導教授が、私を待っていた。
「はい」
「座りなさい」
私は、椅子に座った。
教授は、窓の外を見つめていた。
「お前は、優秀な学生だった」
「ありがとうございます」
「しかし——」
教授が、振り返った。
「危うさも、感じていた」
◇
「危うさ……ですか」
「ああ。お前は、現状に満足していない」
教授の目が、鋭かった。
「今の医学を、変えたいと思っている」
「……」
「図書館で、禁書を読んでいたことも知っている」
私は、息を呑んだ。
「ゼンメルワイスか。あの男は、正しいことを言ったが、時代に受け入れられなかった」
「……」
「同じ轍を、踏むなよ」
◇
教授の言葉は、忠告だった。
「私は、お前の才能を惜しんでいる」
「教授……」
「だから、言っておく」
教授が、私を見た。
「今は、動くな。力を蓄えろ」
「力を……」
「臨床経験を積み、人脈を作り、信頼を得ろ」
「そして、機が熟したら——」
教授は、微笑んだ。
「お前の志を、実現しろ」
「……」
「それまでは、耐えろ。静かに、耐えろ」
◇
私は、教授の言葉を心に刻んだ。
「ありがとうございます」
「これからが、本番だ」
教授が、立ち上がった。
「医師になることは、始まりに過ぎない」
「患者を救い、後進を育て、医学を発展させる——それが、医師の使命だ」
「はい」
「期待している、ヴィルヘルム」
私は、深く頭を下げた。
◇
医学院を出る時、振り返った。
古い石造りの建物。
四年間、学んだ場所。
「いつか、必ずここに戻る」
私は、誓った。
「教授として、この場所を変えるために」
◇
父が、王都に来ていた。
医学院の門の前で、私を待っていた。母が亡くなってから、髪は白くなり、顔には皺が刻まれていた。
「卒業おめでとう、ヴィルヘルム」
「ありがとうございます、父上。わざわざ王都まで……」
「息子の晴れ姿を見逃すわけにはいかん」
父が、微笑んだ。
「首席だと聞いた。誇りに思う」
「父上のおかげです。学費を出していただいて……」
「いや、お前の努力だ」
父の目に、涙が浮かんでいた。
「お母様も、きっと喜んでいるだろう」
「……はい」
私も、涙が出そうになった。
「あの子は、いつもお前のことを話していた」
「お母様が?」
「ああ。『ヴィルヘルムは、きっと立派な人になる』って」
「……」
「その通りになった。首席で医師になった」
父が、私の肩を握った。
「お母様のために、頑張ります」
「ああ。立派な医師になれ」
「でも——」
父が、真剣な目をした。
「無理はするな。お前が倒れたら、意味がない」
「はい」
「お母様も、お前の健康を一番願っていた」
その言葉が、胸に染みた。
「分かりました、父上」
私たちは、母の墓参りに行くことにした。この報告は、真っ先に母にしなければならない。
◇
その夜、一人で夜空を見上げた。
父と別れた後、王都の宿に戻った。窓を開けると、春の夜風が吹き込んでくる。
「お母様……」
呟いた。
「私は、医師になりました」
「首席で卒業しました」
墓前で報告したことを、もう一度繰り返した。
「これから、たくさんの人を救います」
「お母様のような人を、二度と出さないために」
「そして、いつか——」
私は、拳を握りしめた。
「この国の医学を、変えてみせます」
「目に見えない生き物の存在を、証明してみせます」
「誰もが、救われる世界を作ってみせます」
星が、静かに瞬いていた。
母がいる場所から、見守っているように。
◇
翌朝。
私は、医学院を後にした。
四年間通った道。見慣れた石畳。図書館。講義室。すべてが、懐かしかった。
「さようなら」
振り返って、一礼した。
「でも、きっと戻ってきます」
教授として。改革者として。
◇
22歳。
私の医師としての人生が、始まった。
希望に満ちていた。
教授の言葉を胸に。フランツとの友情を胸に。父と母の愛を胸に。
しかし、現実は——
厳しいものだと、すぐに知ることになる。
それでも、私は歩み続ける。
母との約束を、果たすために。
ゼンメルワイスの意志を、継ぐために。




