第3話 最初の患者
四年目の春——臨床実習が本格的に始まった。
桜が散り始める頃。王都の病院には、多くの患者が運ばれてきていた。
◇
「今日から、実際に患者を診てもらう」
指導医が、私たちに言った。
白髪の老医師だ。三十年以上、この病院で働いているという。
「緊張するだろうが、落ち着いて対処しろ」
「患者は、お前たちの不安を敏感に感じ取る」
「医師が動揺すれば、患者も不安になる」
「はい」
私は、深呼吸をした。
周りを見ると、フランツも他の学生も、緊張した面持ちだった。
いよいよだ。これまでの勉強の成果を、試す時が来た。
母を救えなかったあの日から、ずっとこの瞬間を待っていた。
「行くぞ」
指導医の言葉に、私たちは病棟へと向かった。
◇
最初の患者は、高熱の老人だった。
六十代の男性。農夫だという。日焼けした肌が、病によって青ざめている。
「よろしく、お願いします……」
老人が、弱々しく言った。
「はい。診察させていただきます」
私は、老人の額に手を当てた。熱い。かなりの高熱だ。
手が、わずかに震えた。これが、本当の患者だ。失敗すれば——。
——落ち着け。
深呼吸をして、脈を取る。速い。呼吸を確認する。浅く、速い。
聴診器を当てた。肺から、異常な音が聞こえる。
「肺に、炎症があるようです」
「……助かりますか?」
老人の目に、不安が浮かんでいた。その目を見た瞬間、母の顔が浮かんだ。
——この人は、救う。
「全力を尽くします」
私は、できる限り穏やかな声で、そう答えた。
◇
薬草を煎じ、老人に飲ませた。
熱を下げ、咳を鎮める処方だ。教科書通りだが、確実な方法。
「苦いですが、我慢してください」
「……はい」
老人が、顔をしかめながら薬を飲んだ。
私は、一晩中付き添った。氷で額を冷やし、汗を拭き取り、定期的に脈を確認する。
「先生……眠らなくていいんですか……」
「大丈夫です。あなたの容態を見守らせてください」
明け方、老人の呼吸が落ち着いてきた。熱も、少しずつ下がっている。
「効いている……」
私は、ほっとした。
三日後、老人の熱は完全に下がった。
「ありがとうございます……」
老人が、弱々しく笑った。
「あなたのおかげで、助かりました……」
「いえ、お体が丈夫だったおかげです」
「先生は、良い医者になりますよ……」
老人の言葉が、胸に染みた。
「お大事に」
私は、深く頭を下げた。
最初の患者を、救うことができた。これが、医師としての第一歩だ。
◇
しかし、すべての患者を救えるわけではなかった。
それは、臨床実習が始まって一ヶ月後のことだった。
「先生……赤ん坊が……」
若い母親が、ぐったりした赤ん坊を抱いて駆け込んできた。
顔は涙で濡れ、声は震えていた。
「熱が下がらないんです……昨日から、ずっと……」
「見せてください」
私は、赤ん坊を診た。
生後六ヶ月くらいだろう。小さな体が、熱で真っ赤になっている。
高熱。呼吸が浅い。肺炎の症状だ。
「すぐに処置を——」
私の声が、緊張で上ずった。
◇
できる限りのことをした。
薬を投与し、身体を冷やし、一晩中看病した。
「お願い……助けて……」
母親が、何度も繰り返した。
「この子は、私のたった一人の子供なんです……」
「必ず、助けます」
私は、そう言った。言わなければならなかった。
しかし、赤ん坊の容態は悪化していった。
呼吸が、どんどん弱くなる。
「頑張れ……頑張ってくれ……」
私は、小さな手を握った。
しかし——
「……」
翌朝、赤ん坊は息を引き取った。
小さな胸が、動かなくなった。
「嘘……嘘です……」
母親が、泣き崩れた。
「私の子が……私の子が……!」
赤ん坊を抱きしめ、声を上げて泣いた。
「返してください……私の子を返してください……!」
私は、何も言えなかった。
立ち尽くすことしか、できなかった。
◇
「ヴィルヘルム」
フランツが、私のところに来た。
私は、病院の裏庭にいた。一人になりたくて、ここに来ていた。
「大丈夫か?」
「……」
返事ができなかった。
「聞いた。赤ん坊が亡くなったって」
フランツが、隣に座った。
「救えなかった」
私は、拳を握りしめた。
「できることは、全部やった。一晩中、付きっきりで看病した」
「……」
「薬も、正しく投与した。体も冷やした。呼吸を何度も確認した」
「それでも——」
「救えなかった」
私の拳が、震えた。
「なぜだ。なぜ、救えない」
「母親の顔が、忘れられない」
私の声が、震えた。
「『返してください』って……あんな顔で泣かれて……」
「……」
「俺は何もできなかった。ただ立ち尽くすことしかできなかった」
◇
「お前のせいじゃない」
フランツが、言った。
「肺炎は、治療が難しい病気だ。赤ん坊ならなおさらだ」
「分かっている」
「でも、納得できないんだな」
「……ああ」
私は、窓の外を見た。
「母と同じだ。救えなかった」
「……」
「あの時の無力感が、また蘇ってきた」
◇
フランツは、しばらく黙っていた。
そして——
「立ち上がれ、ヴィルヘルム」
静かに、言った。
「え……?」
「今回は救えなかった。でも、次がある」
「次……」
「お前は、まだ学生だ。これから、もっと学んで、もっと強くなれる」
フランツの目が、真剣だった。
「今回の悔しさを、忘れるな。でも、それに押しつぶされるな」
「……」
「その悔しさを、力に変えろ」
◇
フランツの言葉が、胸に響いた。
「……ありがとう」
私は、深く息をついた。
「お前の言う通りだ」
「当たり前だ」
フランツが、笑った。
「俺はお前の友人だ。困った時は、頼れ」
「……ああ」
私も、少しだけ笑えた。
◇
その日から、私は以前にも増して勉強に打ち込んだ。
救えなかった患者のことを、忘れないために。
次は、必ず救うために。
夜遅くまで図書館に籠もった。ゼンメルワイスの著作を、何度も読み返した。
「なぜ、感染症は人を殺すのか」
「なぜ、治療法がないのか」
「何か、方法はないのか」
疑問は、尽きなかった。
「目に見えない生き物が、病気の原因である」
ゼンメルワイスの言葉が、頭から離れない。
もし、これが真実なら——その生き物を殺す方法があれば——
しかし、答えは見つからなかった。
今の医学では、手が届かない。
「くそっ……」
私は、拳で机を叩いた。
なぜ、こんなにも無力なのだ。
◇
四年目の終わり。
私は、臨床実習を終えた。
救えた患者——二十三人。
救えなかった患者——五人。
「まだまだ、足りない」
私は、記録を見つめた。
五人の名前が、記されている。その一人一人に、家族がいた。人生があった。
あの赤ん坊の母親は、今どうしているだろう。
「もっと、学ばなければ」
「もっと、強くならなければ」
そして——
「この国の医学を、変えなければ」
卒業まで、あと一年。
私の戦いは、続く。
いつか必ず、ゼンメルワイスの理論を証明してみせる。
そして、救える命を増やしてみせる。




