第2話 医学院の日々
医学院に入学して、一年が過ぎた。
◇
王立医学院——この国で最も権威ある医療教育機関だ。
古い石造りの建物が並び、回廊には医学の先達たちの肖像画が飾られている。
「ヴィルヘルム、また勉強か?」
声をかけてきたのは、フランツだった。
同期の学生で、私の数少ない友人だ。
「ああ。解剖学の試験が近いからな」
「お前は真面目すぎる」
フランツが、肩をすくめた。
「少しは息抜きもしろよ」
◇
医学院での学びは、厳しかった。
解剖学、薬理学、内科学、外科学——
覚えることは山ほどあり、実習も多い。
朝は夜明け前に起きて予習。講義は日没まで続く。夜は復習と課題に追われる。
「人体の構造を理解しなければ、医師にはなれない」
解剖学の教授は、厳しい人だった。
「骨は206個。筋肉は600以上。すべて覚えろ」
「血管と神経の走行を暗記しろ。これが分からなければ、手術などできない」
教授の言葉が、今も耳に残っている。
講義室では、学生たちが必死でノートを取っていた。脱落者も多い。一年で三分の一が去っていった。
「厳しすぎないか……」
誰かが愚痴をこぼす。
「これが普通だ。医師になるとは、そういうことだ」
私は、誰よりも熱心に学んだ。
夜中まで図書館に籠もり、医学書を読み漁る。分からないことがあれば、教授の部屋を訪ね、質問を重ねた。
「お前は熱心だな」
教授が、珍しく褒めてくれた。
「良い医師になれるかもしれん」
その言葉が、励みになった。
母を救えなかった悔しさを、忘れないために。
◇
「なあ、ヴィルヘルム」
ある夜、フランツが私の部屋を訪ねてきた。
「お前、なんでそんなに必死なんだ?」
「……」
「俺たちの中で、お前が一番優秀だ。もう少し楽にしてもいいだろ」
「楽にはできない」
私は、正直に答えた。
「母を、亡くしたんだ」
◇
「母親を……」
フランツの顔が、曇った。
「感染症だった」
私は、窓の外を見つめながら言った。
「医師に診てもらったが、救えなかった」
「手遅れだと言われた」
「あの時の無力感が、忘れられないんだ」
フランツは、黙って聞いていた。
◇
「だから、医師になった」
私は、拳を握りしめた。
「一人でも多くの命を救うために」
「母のような人を、二度と出さないために」
「……そうか」
フランツが、静かに頷いた。
「お前の気持ち、分かったよ」
「俺も、手伝えることがあったら言ってくれ」
◇
フランツは、良い友人だった。
私が根を詰めすぎると、無理やり外に連れ出してくれた。
「たまには酒場でも行こうぜ」
「勉強が……」
「一日くらい休んでも、死にはしない」
そう言って、笑った。
私も、つられて笑った。
◇
二年目になると、実習が増えた。
実際の患者を診る機会も出てきた。
「緊張するな……」
初めて患者の脈を取った時、手が震えた。
目の前には、熱を出して苦しむ中年の男性がいた。
「先生……助けてください……」
患者の目が、私を見ている。すがるような目。
——母と同じ目だ。
心臓が、激しく打った。
「落ち着け、ヴィルヘルム」
指導医が、冷静に言った。
「患者の前で動揺するな」
「はい……」
私は、深呼吸をした。
「脈は速い。熱が高い。肺の音は……」
聴診器を当てる。肺から、異常な音は聞こえない。
「おそらく風邪でしょう。安静にして、解熱の薬草を処方します」
指導医が、頷いた。
「正解だ。良く診れている」
患者が、ほっとした顔をした。
「ありがとうございます、先生」
その言葉を聞いた時、初めて——医師になって良かったと思った。
◇
しかし、すべての患者を救えるわけではなかった。
ある日、重症の患者が運ばれてきた。
「助けてくれ……」
男性が、血を吐いていた。
「何とかしろ!」
指導医の声が飛ぶ。しかし、出血は止まらない。
結局、その患者は助からなかった。
「仕方ない。手遅れだった」
指導医が、首を振った。
「医師は万能ではない。救えない命もある」
分かっている。分かっているが——
悔しかった。また、救えなかった。
◇
医学院での日々は、充実していた。
しかし、疑問も感じていた。
「なぜ、感染症は起こるのか」
教授に質問すると、こう返ってきた。
「瘴気だ。悪い空気が病気を引き起こす」
「瘴気……」
「そうだ。だから、香草を焚いて空気を浄化するのだ」
私は、納得できなかった。
◇
ある夜、図書館の奥で古い医学書を探した。
埃をかぶった書架の片隅に、それはあった。
160年前の著者——ゼンメルワイスという名の医師。
表紙は黄ばみ、ページは脆くなっていた。誰も読んでいない証拠だ。
しかし、その内容は衝撃的だった。
『私は、産褥熱の原因を突き止めた。医師が死体を触った手で、そのまま産婦を診察していたのだ』
『手を洗うことで、産褥熱の死亡率が激減した』
『つまり、目に見えない小さな生き物が、病気の原因である可能性がある』
その一文に、私は目を奪われた。
「目に見えない……小さな生き物……」
これが、真実なのではないか。
母を殺した感染症。その原因は、悪い空気ではなく——目に見えない何かだったのでは。
心臓が、激しく打った。
しかし、この説は異端として退けられていた。
ゼンメルワイスは晩年、狂人扱いされたという。真実を語ったがゆえに。
◇
「ヴィルヘルム、何を読んでいる?」
フランツが、覗き込んできた。
「古い医学書だ」
「ゼンメルワイス? 聞いたことないな」
「異端として葬られた医師だ」
私は、本を閉じた。
「でも、この人の考えは正しいかもしれない」
「危ないことを言うなよ」
フランツが、眉をひそめた。
「教会に睨まれるぞ」
◇
この世界では、教会の影響力が強い。
病気は神の試練とされ、医学は神学の下に置かれている。
「医師は、神の御業を補佐する者に過ぎない」
それが、公式の見解だった。
だから、革新的な理論は排斥される。
私は、それを知っていた。
知っていたが——納得はできなかった。
◇
三年目。
私は、学年で首位に立っていた。
「さすがだな、ヴィルヘルム」
フランツが、拍手してくれた。
「お前は、きっと偉大な医師になる」
「まだ、何も成し遂げていない」
私は、首を振った。
「成績が良いだけでは、意味がない」
「実際に患者を救えなければ」
「真面目だな、相変わらず」
フランツが笑った。でも、その目は真剣だった。
「俺は、お前みたいにはなれない」
「どういう意味だ?」
「そこまで純粋に、医学を追求できない」
フランツが、窓の外を見た。
「俺は正直、安定した生活がほしいだけなんだ。医師になれば、食いっぱぐれないからな」
「それでも、患者は救える」
「ああ。でも、お前は違う」
「違う?」
「お前は、医学そのものを変えようとしている」
私は、何も言えなかった。
「だから、応援する。お前が成し遂げることを」
フランツが、私の肩を叩いた。
「卒業してからが、本番だ」
◇
卒業を控えた夜。
私は、一人で窓の外を見つめた。
星が、静かに瞬いている。
あれから三年。多くのことを学んだ。しかし、まだ足りない。
ゼンメルワイスの理論。目に見えない生き物。それを証明する方法は、まだ分からない。
「お母様……」
私は、小さく呟いた。
「私は、必ず立派な医師になります」
「そして、この国の医学を変えてみせます」
「たとえ、どんなに長い道のりでも」
机の上には、ゼンメルワイスの本が置いてある。何度も読み返した、あの本。
「あなたの意志を、継ぎます」
私は、本に向かって誓った。
「160年前に見捨てられた真実を、必ず証明してみせる」
星は、何も答えなかった。
しかし、私の決意は揺るがなかった。
来年からは、王都の病院で働く。そこで、本当の戦いが始まる。




