1話 母の死と誓い
私の名は、ヴィルヘルム・フォン・シュタイナー。
これは、私がまだ若かった頃の話だ。
◇
母は、私が物心ついた頃から病弱だった。
「ヴィルヘルム……」
母は、いつも優しく私の名前を呼んでくれた。
ベッドに横たわり、青白い顔で微笑みながら。
「今日は、調子がいいの」
「外に出てみましょうか」
そう言う日は、年に数回しかなかった。
でも、その日が来ると、母は私の手を取って庭を歩いた。
「見て、ヴィルヘルム。薔薇が咲いているわ」
「きれいですね、お母様」
「あなたにあげましょう」
母が摘んでくれた薔薇は、今でも押し花にして取ってある。
「いつか……元気になったら……」
母は、よくそう言っていた。
「一緒に、遠くまで旅行しましょうね」
「どこに行きたいですか?」
「海が見たいの。この目で、本物の海を」
その約束は、ついに果たされることがなかった。
◇
父は、下級貴族だった。
騎士団に所属していたが、母の看病のために早くに引退した。
「お前の母は、繊細な人だ」
父は、いつもそう言っていた。
「だから、大切にしなければならない」
父は、母のために全てを捧げていた。仕事も、名誉も、将来も。
「後悔はないのですか?」
一度だけ、父に聞いたことがある。
「ない」
父は、即答した。
「お前の母といる時間が、私にとって一番大切だ」
その言葉を、私は今でも覚えている。
私も、母を大切にした。
母の傍にいて、本を読んであげたり、庭の花を摘んできたり。
「ヴィルヘルム、今日は何を読んでくれるの?」
「騎士物語です。勇敢な騎士が、姫を救う話」
「あなたも、いつか誰かを救う騎士になるのかしら」
母が笑うと、私も嬉しかった。
あの頃は、この幸せな時間がずっと続くと思っていた。
◇
十五歳の冬。
その年は、特に寒かった。
母の病状が、急激に悪化した。
「お医者様を……!」
父が、医師を呼びに走った。雪の中を、必死で。
私は、母の傍を離れなかった。
「ヴィルヘルム……」
「お母様、喋らないで。楽にして」
母の手を握った。冷たい手。骨と皮だけになった、細い手。
咳が止まらない。胸から、嫌な音がする。
「いいの……」
それでも、母は微笑んだ。
「あなたは……立派な人になってね……」
「お母様……!」
「私の……自慢の息子よ……」
母の目から、涙がこぼれた。
「生まれてきてくれて……ありがとう……」
「お母様、そんなこと言わないで……」
「海……見せてあげられなくて……ごめんね……」
私は、何も言えなかった。
◇
医師が来た時には、もう手遅れだった。
年老いた医師が、母を診察して、首を振った。
「感染症です」
「肺に広がっています。もう、手の施しようがありません」
「何とかならないのですか……!」
私は、医師に詰め寄った。
「何か……薬は……」
「申し訳ありません」
医師の目には、諦めの色が浮かんでいた。
「これ以上、私にできることはありません」
父が、崩れ落ちた。
私は、母の手を握ったまま、動けなかった。
——なぜだ。
なぜ、医師は母を救えないのだ。
何のための医者なのだ。
◇
三日後——
母は、静かに息を引き取った。
最期まで、微笑んでいた。
「ヴィルヘルム……大好きよ……」
それが、最後の言葉だった。
「お母様……」
私は、泣いた。
声を上げて、泣いた。
なぜ、母を救えなかったのか。
なぜ、医師は何もできなかったのか。
悔しかった。
悲しかった。
そして——無力だった。
庭の薔薇は、雪に埋もれていた。もう二度と、母と一緒に見ることはできない。
◇
葬儀の日。
父が、私に言った。
「ヴィルヘルム」
「はい……」
「お前は、何になりたい?」
「……」
私は、考えた。
今まで、考えたことがなかった。
騎士になるのだろうか。
父のように。
でも——
「医師になりたい」
気づいたら、そう言っていた。
「医師……?」
「はい」
私は、真っ直ぐに父を見た。
「お母様を救えなかった。でも、他の人なら救えるかもしれない」
「一人でも多くの命を——救いたいんです」
父は、しばらく黙っていた。
そして——
「分かった」
静かに、頷いた。
「お前の好きにしなさい」
◇
それから三年。
私は、医学の本を読み漁った。
父の蔵書。古書店で見つけた専門書。手に入る限りの本を読んだ。
「お前は、本当に医師になるつもりか」
父が、心配そうに聞いた。
「はい」
「医師は、苦しい仕事だ。人の死と向き合わなければならない」
「分かっています」
「お母さんのような人を、また見ることになる」
「……」
「それでも、いいのか」
私は、頷いた。
「だからこそ、行くのです」
父は、何も言わなかった。ただ、私の肩を強く握った。
◇
十八歳の春。
私は、王立医学院の入学試験を受けた。
試験会場には、多くの受験者がいた。貴族の子弟が多い。緊張した面持ちの若者たちが、廊下に並んでいた。
「お前は、なぜ医師を目指す?」
面接で、白髪の教授に聞かれた。厳しい目。長年医学に携わってきた者特有の、鋭い眼差し。
「人を救いたいからです」
私は、真っ直ぐに答えた。
「幼い頃、母が病で亡くなりました」
「医師に診てもらいましたが、救えませんでした」
教授は、黙って聞いていた。
「あの時の無力感が、忘れられないのです」
私は、拳を握りしめた。
「だから、医師になりたい。一人でも多くの命を救いたい」
「……」
「二度と、あんな思いをしたくない。誰にも、させたくない」
◇
教授は、しばらく私を見つめていた。
「……いい目をしている」
やがて、そう言った。
「覚悟は、あるか」
「はい」
「医師は、命を預かる仕事だ。失敗すれば、人が死ぬ」
「分かっています」
「それでも、やるか」
「やります」
教授が、頷いた。
「良いだろう。入学を許可する」
その言葉に、私は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「必ず、立派な医師になります」
教授は、静かに言った。
「覚えておけ。医師は万能ではない」
「……」
「救えない命もある。それでも、諦めずに戦い続ける。それが医師だ」
「はい」
「辛い道だ。何度も挫けそうになるだろう」
「それでも、歩き続けます」
教授は、初めて微笑んだ。
「いい返事だ。期待している」
◇
入学が決まった日。
私は、母の墓前に報告に行った。
「お母様。私、医学院に合格しました」
墓石に、春の花が供えてある。父が来たのだろう。
「約束します」
私は、墓石に向かって誓った。
「必ず、立派な医師になります」
「お母様のような人を、救える医師に」
風が、静かに吹いた。まるで、母が応えてくれたように。
◇
入学式の日。
私は、王立医学院の門をくぐった。
石造りの重厚な建物。長い歴史を感じさせる佇まい。
ここで、何百人もの医師が育っていった。
そして今日から、私もその一員になる。
「ここから、私の戦いが始まる」
母を救えなかった悔しさを胸に。
一人でも多くの命を救うという誓いを胸に。
私は、歩き始めた。
講堂に向かう廊下を、一歩一歩踏みしめながら。
まだ、長い道のりが待っていることを——
この時の私は、知らなかった。




