第8話 託された場所
別れの日が、やってきた。
マルタ、52歳。リーゼお嬢様が、王都に旅立つ日だった。
◇
数日前、リーゼが私のところに来た。
「マルタさん……実は、王都から正式な招待状が届きまして」
手紙を見せながら、すべてを話してくれた。ヴィルヘルム先生の提案。伯爵様の言葉。エーリヒ様の決意。そして、リーゼ自身の決断。
私は静かに聞いていた。そして——
「やっと、決心がついたのですね」
「……はい」
「リーゼ様、あなたがここ一ヶ月、ずっと悩んでいたことは知っていました」
リーゼの手を握った。三十年以上の経験が刻まれた、私の手。
「行きなさい」
私の声は、穏やかだった。
「王都で、もっと多くのことを学んできてください」
「でも、マルタさん一人では……」
「大丈夫です」
私は懐から手紙を取り出した。
「実は隣町のハインリヒ先生が協力してくれることになったんです。週に一度、こちらに来て診療を手伝ってくれるそうです」
リーゼは安堵の表情を見せた。
「それなら……安心です」
「ええ。だから心配せずに王都へ行ってください」
◇
リーゼの目に、涙が浮かんでいた。
「マルタさん……一緒に来てほしい、って言いたかった」
「…」
「でも、分かってるの。この診療所を、誰かが守らなきゃいけない」
私は頷いた。
「この村の人たちは、まだ私たちを必要としています」
「はい」
「お嬢様が王都で学んでいる間、私がここを守ります」
リーゼが、私を見つめた。
「だから、安心して行ってください。お嬢様の帰る場所は、ちゃんと守っておきます」
「マルタさん……」
リーゼが、私に抱きついてきた。小さな体。でも、その中には前世の記憶を持つ大人の魂が宿っている。
「ありがとう……ありがとう……」
私も、リーゼを抱きしめた。
「こちらこそ」
◇
私は棚から、古い巻物を取り出した。
「これを、持っていってください」
黄ばんだ羊皮紙。古い薬草の知識が、丁寧な文字で記されている。
「これは……」
「私の師匠から受け継いだものです」
私は大切そうに巻物を撫でた。
「三世代にわたって受け継がれてきた、薬草の知識。そして今、あなたに託します。四世代目の継承者として」
リーゼは震える手で巻物を受け取った。
「必ず……必ず、大切にします」
「ええ。そして、いつか戻ってきた時——」
私は微笑んだ。
「もっと多くの知識を加えて、次の世代に受け継いでください」
「はい」
リーゼの紫の瞳から、涙が流れた。
「マルタさんは、私にとって単なる師匠じゃありません」
「…」
「お母さんのような……いえ、かけがえのない友人です」
その言葉に、私も涙が溢れた。
「私も……同じ気持ちです」
私たちはしばらく、抱き合っていた。別れの涙。でも、悲しみだけではない。新しい出発への、希望の涙でもあった。
◇
出発の朝。
屋敷の前に馬車が用意されていた。荷物はすでに積まれている。
「マルタ」
伯爵様が、私に声をかけてくださった。
「リーゼがいない間、診療所を頼む」
「はい。お任せください」
私は深く頭を下げた。
「必ず、この診療所を守ります。お嬢様が帰ってこられる日まで」
伯爵様は満足そうに頷いた。
「信頼している」
◇
リーゼとエーリヒ様が、馬車に乗り込む準備をしていた。
私は、二人の前に立った。
「リーゼ様。エーリヒ様」
「マルタさん」
「どうか、お体に気をつけて」
私の声が、少し震えた。
「王都は、知らない場所です。危険もあるでしょう。でも——」
私はリーゼの目を見つめた。
「あなたなら、大丈夫です。私は、信じています」
リーゼが、私の手を握った。
「マルタさんも、体に気をつけてね」
「はい」
「無理しないで。ちゃんと休んで」
「はい」
リーゼが微笑んだ。その笑顔は、2年前に初めて会った時と同じ——でも、もっと強くなっていた。
「いってきます」
「いってらっしゃいませ」
馬車が動き出した。
私は、馬車が見えなくなるまで手を振り続けた。
◇
馬車が地平線に消えた後も、私はしばらく立ち尽くしていた。
胸の中に、ぽっかりと穴が空いたような気持ち。
2年間、毎日一緒にいた。薬草の手入れをして、患者を診て、夜は星を見ながら話した。
それが、なくなる。
「マルタさん」
振り返ると、村人が立っていた。
「診療所、今日はやってますか?」
「……はい」
私は、背筋を伸ばした。
「もちろんです。いつも通り、開けていますよ」
◇
診療所に戻ると、すべてがいつも通りだった。
薬草の棚。診察台。記録ノート。リーゼと一緒に整えた、この空間。
「さあ、仕事を始めましょう」
私は、エプロンを締め直した。
リーゼがいなくても、私はここにいる。この診療所を守る。村人たちを助ける。
それが、私の役目だから。
◇
午前中、3人の患者が来た。
風邪の子供。腰痛の老人。軽い切り傷の農夫。
いつもの患者たち。いつもの治療。
「マルタさん、リーゼ様は王都に行かれたんですよね」
農夫が聞いた。
「はい。医学院で学ばれます」
「寂しくなりますね」
「……ええ」
私は正直に答えた。
「でも、お嬢様はきっと、もっと立派な医師になって帰ってこられます」
「そうですよね」
農夫は微笑んだ。
「楽しみですね。リーゼ様が帰ってくる日が」
「はい」
私も微笑んだ。
「楽しみです」
◇
午後、ハインリヒ先生が訪ねてきた。
「マルタさん、今日からよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
ハインリヒ先生は、隣町で開業していた医師。リーゼが診療所を始めた頃、「子供に医療をさせるなど危険だ」と批判していた。
でも、リーゼの実力を目の当たりにして、考えを改めてくれた。疫病の時も、一緒に働いてくれた。今では、良き理解者だった。
「リーゼ君は、無事に出発しましたか」
「はい。今朝、馬車で」
「そうですか」
ハインリヒ先生は、診療所を見回した。
「ここは、よく整っていますね」
「リーゼ様と一緒に、整えました」
「素晴らしい」
先生は頷いた。
「週に一度、私が来て診療を手伝います。それ以外の日は、マルタさんにお任せします」
「はい。よろしくお願いします」
私たちは握手をした。
新しいパートナー。リーゼほどではないが、信頼できる人だった。
◇
夜。診療所の片付けを終えて、庭に出た。
星が、美しく輝いている。
「リーゼ様……」
私は、空を見上げた。
「今頃、どこにいらっしゃるのでしょうね」
同じ星を、リーゼも見ているだろうか。馬車の窓から、空を見上げているだろうか。
「お嬢様」
私は、星に向かって呟いた。
「私は、ここで待っています」
「この診療所を、ちゃんと守っています」
「だから、安心して学んできてください」
風が、優しく吹いた。まるで、リーゼが答えてくれているような。
◇
部屋に戻り、机に向かった。
引き出しから、新しいノートを取り出す。
「記録を、つけましょう」
リーゼがいない間の、診療記録。治療した患者。使った薬草。効果と経過。
すべてを、丁寧に記録する。
リーゼが帰ってきた時、見せられるように。「ちゃんとやっていましたよ」と報告できるように。
「今日の患者。3名」
ペンを走らせる。
「1人目。6歳男児。風邪。カモミールとエルダーフラワーの煎じ薬を処方」
「2人目。68歳男性。腰痛。温湿布と——」
記録を書きながら、私は気づいた。
これは、師匠アデラがしていたことと同じだ。
師匠も、毎日記録をつけていた。患者のこと。薬草のこと。すべてを。
そして、その記録を私に継承してくれた。
今度は、私がリーゼに継承する番だ。
◇
ベッドに入り、目を閉じる。
長い一日だった。初めて、リーゼのいない日。
寂しかった。胸が締め付けられるほど。
でも、悲しくはなかった。
なぜだろう、と自分でも不思議だった。
◇
考えてみれば、分かった。
25年前、トーマスと師匠を失った時。あの時は、本当に悲しかった。二度と会えないから。永遠の別れだったから。
でも、リーゼとの別れは違う。
必ず、帰ってくる。成長して、もっと立派になって。その日を、私は待てばいい。
別れではなく——再会への序章なのだ。
◇
リーゼは、遠くに行ったわけではない。心は、ずっと繋がっている。
そして、いつか必ず帰ってくる。
それまで、私はここで待つ。この診療所を守りながら。
◇
翌日から、日常が始まった。
朝、薬草園の手入れ。昼、診療所で患者を診る。夕方、薬草の調合。夜、記録をつける。
リーゼがいた時と、同じ日々。でも、一人。
最初は寂しかった。でも、すぐに慣れた。
私は、30年間薬草師をしてきた。そのうち25年は、一人だった。一人で働くことには、慣れている。
でも、リーゼと過ごした2年間は、特別だった。
あの2年間があったから、今の私がある。
◇
1週間が過ぎた。
リーゼから、最初の手紙が届いた。
「マルタさんへ」
「無事に王都に着きました。医学院は、想像以上に大きな場所です」
「たくさんの本があります。たくさんの学生がいます。みんな、真剣に学んでいます」
「私も、負けないように頑張ります」
「診療所のこと、よろしくお願いします。マルタさんがいてくれるから、安心して学べます」
「また手紙を書きます。体に気をつけてね」
「リーゼ」
私は、手紙を何度も読み返した。
そして、返事を書いた。
「リーゼ様へ」
「お手紙、ありがとうございます。無事に着かれて、安心しました」
「診療所は、順調です。ハインリヒ先生も、よく手伝ってくださっています」
「今週は、12人の患者を診ました。皆さん、リーゼ様のことを心配しています。元気でやっていると伝えておきますね」
「どうか、お体に気をつけて。勉強、頑張ってください」
「いつでも、待っています」
「マルタ」
◇
それから、月に2回ほど、手紙のやり取りが続いた。
リーゼの手紙には、王都での出来事が書かれていた。
医学院の授業のこと。同級生たちのこと。新しく学んだ知識のこと。
時には、困ったことも書かれていた。
「年上の学生たちに、子供扱いされます」
「でも、負けません。実力で認めさせます」
私は、手紙を読みながら微笑んだ。
ああ、リーゼらしい。
そして、返事を書いた。
「お嬢様なら、大丈夫です。私は信じています」
◇
季節が変わった。
春が過ぎ、夏が来て、秋になり、冬が訪れた。
診療所は、変わらず続いていた。
村人たちが来て、治療を受けて、帰っていく。
「マルタさん、ありがとう」
「また来ますね」
「リーゼ様によろしく伝えてね」
みんな、リーゼのことを覚えている。帰ってくる日を、楽しみにしている。
私も、同じだった。
◇
ある冬の夜。
手紙を書き終えて、窓から外を見た。
雪が降っている。静かな、美しい雪。
「師匠」
私は、空に向かって呟いた。
「トーマス」
「見ていますか」
風が、窓を叩いた。
「私は今、とても幸せです」
「リーゼ様という、素晴らしい人に出会えました」
「その人のために、この診療所を守っています」
雪が、優しく降り続けている。
「いつか、リーゼ様が帰ってきます」
「その時、私は胸を張って言えます」
「『ちゃんと守っていましたよ』って」
涙が、頬を伝った。
「だから、見守っていてください」
「私は、最後まで頑張ります」
◇
52歳の冬。
私は、ハイムダル領の診療所にいた。
リーゼが王都で学んでいる間、この場所を守る。それが、私の使命だった。
20歳で薬草師になってから、32年。
たくさんのことがあった。喜びも、悲しみも、絶望も、希望も。
そして今、私は一つの役目を果たしている。
知識を守ること。診療所を守ること。そして、リーゼの帰りを待つこと。
師匠アデラから受け継いだものを、リーゼに託した。
でも、私の仕事は終わっていない。
この診療所を守り続けること。村人たちを助け続けること。
それが、私に残された使命だった。
◇
窓の外を見る。
雪が止み、星が見え始めた。
同じ星を、王都でリーゼも見ているだろうか。
「おやすみなさい、リーゼ様」
私は、星に向かって呟いた。
「明日も、頑張りましょうね」
返事は、もちろん聞こえない。
でも、心は繋がっている。
離れていても、私たちはパートナーだ。
いつか再会する日まで、お互いの場所で頑張ろう。
三十年の薬草師。
その旅は、まだ続く。
(外伝 三十年の薬草師 完)




