第7話 大疫病の記憶
あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
マルタ、52歳。リーゼお嬢様、12歳。隣町で、疫病が発生した年のことだった。
◇
最初に噂を聞いたのは、市場でだった。
「隣町で、病が流行っているらしい」
「高熱と、激しい下痢だと」
「もう、何人も亡くなったって…」
私は、血の気が引いた。
疫病——25年前、私から夫と師匠を奪った、あの恐怖が蘇る。
「マルタ、どうしたの?」
リーゼが、私の顔色の変化に気づいた。
「お嬢様…隣町で、疫病が…」
その言葉を聞いた瞬間、リーゼの目が変わった。紫の瞳に、強い決意の光が宿る。
「行かなきゃ」
「え…?」
「私たちが、行かなきゃ」
◇
その夜、リーゼは伯爵様に直談判した。
「お父様。隣町に行かせてください」
「何を言っているんだ、リーゼ。疫病が流行っている場所に、お前を行かせるわけにはいかない」
「でも、私には知識があります。人を救える知識が」
「危険すぎる。お前まで感染したらどうする」
伯爵様の声は、厳しかった。でも、その目には深い愛情があった。娘を失いたくない——その思いが伝わってきた。
私は、25年前の自分を思い出した。師匠アデラと一緒に、疫病に立ち向かった日々。そして、すべてを失った日。
「お嬢様…本当に、行くおつもりですか」
私は、小さく聞いた。
「もちろん」
リーゼは、迷いなく答えた。
「放っておけない。多くの人が苦しんでいるのに」
その目を見て、私は決心した。
「私も、行きます」
「マルタ…」
「25年前、私は疫病で夫と師匠を失いました」
私の声が震えた。
「でも、今度は違います。お嬢様と一緒なら、きっと——」
リーゼが、私の手を握った。
「一緒に行こう、マルタ」
「はい」
◇
伯爵様は、最終的に許可を出してくれた。ただし、エーリッヒ様を護衛として同行させる条件で。
「必ず、無事に帰ってこい」
「はい、お父様」
伯爵夫人は、涙を流しながら私たちを見送った。
「リーゼ…マルタ…どうか、無事で…」
「大丈夫です、お母様」
リーゼは、優しく微笑んだ。
「私は、負けません」
◇
馬車で半日。隣町に到着した時、私は言葉を失った。
25年前の悪夢が、蘇ったようだった。
通りには、病人があふれている。呻き声。泣き声。死臭。すべてが、あの時と同じだった。
「ひどい…」
エーリッヒ様が、顔を歪めた。
「こんなに多くの人が…」
でも、リーゼは違った。怯むことなく、前に進んだ。
「マルタ、まず患者の隔離から始めるわ」
「隔離…?」
「健康な人と病人を分けるの。感染を広げないために」
私は、驚いた。25年前、私たちはそこまで体系的な対策を取れなかった。ただ、目の前の患者を治療することで精一杯だった。
「それから、手洗いと消毒を徹底させる。水は必ず煮沸してから使う」
リーゼは、次々と指示を出していった。
「脱水を防ぐために、塩と砂糖を溶かした水を飲ませる」
「高熱には、解熱の薬草を」
「排泄物は、離れた場所に埋める」
すべてが、理に適っていた。私の知らない知識——前世の医学が、ここで発揮されている。
◇
町長と会い、リーゼは対策を説明した。
「12歳の子供が、何を言っているんだ」
最初、町長は懐疑的だった。当然だ。12歳の少女が、疫病対策を指揮するなど、普通はあり得ない。
でも、リーゼは諦めなかった。
「私の言う通りにしてください。さもなければ、この町は全滅します」
その目は、真剣だった。子供の目ではない。何百人もの命を背負った、医師の目だった。
町長は、しばらく沈黙した。そして——
「分かった。やってみろ」
◇
それからの日々は、激闘だった。
朝から晩まで、患者の治療。隔離区画の設置。衛生管理の徹底。水源の確保。
私は、リーゼの隣で働き続けた。
「マルタ、この患者は脱水が進んでいるわ。塩水を飲ませて」
「はい」
「こっちの患者は、熱が下がってきた。回復期に入ったわね」
「良かった…」
リーゼの判断は、的確だった。どの患者が危険で、どの患者が回復に向かっているか。一目で見分けていた。
そして、何より驚いたのは——
「感染を防ぐ方法が、ちゃんとあるのよ」
リーゼの対策のおかげで、私たちは感染しなかった。手洗い。消毒。患者との接触の仕方。すべてに、理由があった。
25年前、私は何も知らなかった。ただ必死に働いて、そして夫と師匠を失った。
でも今、リーゼと一緒なら——
「マルタ、大丈夫?」
「はい…大丈夫です」
私は、涙を堪えた。今は、泣いている場合ではない。
◇
1週間が過ぎた。患者の増加が、止まり始めた。
「隔離が効いてきたわ」
リーゼは、記録を見ながら言った。
「新規患者が減っている。あと1週間で、終息できるかもしれない」
私は、安堵した。本当に、終わりが見えてきた。
「お嬢様…すごいです」
「マルタのおかげよ」
「いえ、私は何も…」
「あなたがいなかったら、私一人では無理だった」
リーゼが、私を見た。
「薬草の調合も、患者の看護も、あなたが支えてくれたから」
その言葉に、私は泣きそうになった。
「ありがとうございます、お嬢様…」
◇
そして、3週間後。疫病は、終息した。
死者は30人を超えた。でも、もしリーゼがいなければ、もっと多くの命が失われていただろう。
「本当に、ありがとうございました」
町長が、深く頭を下げた。
「あなた方のおかげで、この町は救われました」
「いえ」
リーゼは、静かに答えた。
「救えなかった命もあります。もっと早く来ていれば…」
「そんなことはありません」
町長は、首を振った。
「あなたは、12歳でこれだけのことをした。奇跡です」
「…」
「この恩は、一生忘れません」
◇
帰りの馬車の中。私は、リーゼに聞いた。
「お嬢様。25年前、私は疫病で夫と師匠を失いました」
「…」
「あの時の私には、何もできませんでした。ただ、目の前の人を治療することしか」
私の声が震えた。
「でも今回は、違いました。お嬢様の知識のおかげで、多くの命が救われました」
「マルタ…」
「ありがとうございます」
私は、涙を流した。
「お嬢様と出会えて、本当に良かった」
リーゼも、目を潤ませていた。
「私こそ、マルタに感謝してる」
「え…?」
「一人じゃ、怖かった。疫病と戦うのは、初めてだったから」
リーゼは、私の手を握った。
「でも、マルタがいてくれたから、頑張れた」
「お嬢様…」
「これからも、一緒にいてね」
「はい」
私は、深く頷いた。
「どこまでも、お供します」
◇
屋敷に帰ると、伯爵様と伯爵夫人が出迎えてくれた。
「よく、無事で帰ってきた」
伯爵様が、リーゼを抱きしめた。
「心配したぞ」
「ごめんなさい、お父様」
「いや、いい。お前は、立派なことをした」
伯爵様の目に、誇らしさがあった。
「マルタも、ご苦労だった」
「いえ、私は…」
「お前がいてくれたから、リーゼは無事だった。感謝する」
私は、深く頭を下げた。
「光栄です」
◇
その夜。私は、一人で星を見ていた。
師匠アデラ。トーマス。
今日、私はようやく、25年前の悲しみを乗り越えられた気がします。
あの時、私は何もできませんでした。ただ、あなたたちが死んでいくのを見ていることしか。
でも今日、私は疫病と戦いました。リーゼお嬢様と一緒に。そして、多くの命を救いました。
あなたたちの分まで、私は生きています。
そして、これからも——
「マルタ」
振り向くと、リーゼが立っていた。
「眠れないの?」
「はい…少し」
「私もよ」
リーゼは、私の隣に座った。
「今日のこと、考えてた」
「…」
「救えた命と、救えなかった命」
リーゼの声が、小さくなった。
「前世でも、同じだった。どんなに頑張っても、救えない人がいる」
「…」
「それでも、諦めちゃいけない」
リーゼが、空を見上げた。
「一人でも多く、救うために」
私は、リーゼの肩を抱いた。
「お嬢様は、十分頑張りました」
「…」
「今日、あなたのおかげで、たくさんの人が生き延びられた」
「マルタ…」
「どうか、自分を責めないでください」
リーゼの目から、涙が流れた。
「ありがとう、マルタ…」
私たちは、しばらく黙って星を見ていた。
この子は、まだ12歳なのだ。前世の記憶があるとはいえ、心は繊細な少女。重荷を、一人で背負わせてはいけない。
私が、支えなければ。
52歳の薬草師として。そして、パートナーとして。
「さあ、そろそろ休みましょう」
「うん…」
私は、リーゼを部屋まで送った。
「おやすみなさい、お嬢様」
「おやすみ、マルタ」
扉が閉まる前、リーゼが振り返った。
「マルタ」
「はい?」
「大好きよ」
その言葉に、私は涙が出そうになった。
「私も、大好きです。お嬢様」
扉が閉まった。
私は、自分の部屋に戻りながら、心の中で誓った。
この子を、守る。支える。そして、一緒に歩いていく。
どこまでも。いつまでも。




