第6話 目覚めた魂
運命の日は、突然やってきた。
マルタ、50歳。リーゼお嬢様が、10歳の誕生日を迎えた年のことだった。
◇
その数日前から、リーゼは少しおかしかった。
「マルタ、私……時々、夢を見るの」
「夢ですか?」
「うん。知らない場所の夢。知らない人たちの夢」
リーゼは、ぼんやりと空を見つめていた。
「でも、知らないはずなのに……懐かしい気がするの」
「不思議ですね」
私は、深く考えなかった。子供は、よく不思議な夢を見るものだ。
でも、今思えば——あれは、予兆だったのかもしれない。
◇
その日、屋敷中が騒然としていた。
「リーゼお嬢様が倒れた!」
「高熱が出ている!」
「医者を呼べ!」
私は、真っ先に駆けつけた。リーゼの部屋に飛び込むと、伯爵夫人が泣きながら娘の手を握っていた。
「マルタ…! リーゼが…!」
「見せてください」
私は、リーゼの額に手を当てた。熱い。かなりの高熱だ。呼吸は浅く、意識がない。
「いつから、こんな状態に?」
「今朝、急に倒れたんです…」
夫人の声が震えている。
私は、すぐに解熱の薬草を準備した。カモミールとエルダーフラワーを煎じ、少しずつ飲ませる。額には、冷たい濡れ布を当てた。
「大丈夫です。きっと良くなります」
そう言いながらも、私の心は不安でいっぱいだった。
リーゼお嬢様。どうか、目を覚ましてください。
◇
3日間、リーゼは眠り続けた。
私は、ほとんど寝ずに看病した。熱は少しずつ下がっていったが、意識は戻らなかった。
伯爵様も伯爵夫人も、憔悴しきっていた。エーリヒ様も、妹の部屋の前で何度も立ち尽くしていた。
「リーゼ…頼む、起きてくれ…」
私も、同じ気持ちだった。この2年間、リーゼと過ごした時間が、走馬灯のように蘇る。
薬草園で一緒に作業したこと。薬草の名前を教えたこと。彼女の驚くべき記憶力に感嘆したこと。
この子を失いたくない。絶対に。
◇
4日目の朝。
私が、リーゼの額の布を替えていた時だった。
「……ん…」
小さな声が聞こえた。
「リーゼお嬢様!?」
私は、彼女の顔を覗き込んだ。
ゆっくりと、瞼が開いた。紫色の瞳が、私を見た。
でも——その目は、以前と違っていた。
何と言えばいいのだろう。深さが、増していた。まるで、何十年も生きてきた人のような、深い知恵と経験を湛えた瞳。
「マルタ…」
リーゼが、私の名前を呼んだ。その声も、どこか違う。落ち着いていて、大人びている。
「お嬢様…! 良かった…!」
私は、涙を流した。
「伯爵様! 夫人! リーゼお嬢様が目を覚まされました!」
屋敷中が、喜びに沸いた。
◇
でも、私はすぐに気づいた。
リーゼお嬢様は、変わった。
言葉遣い。仕草。考え方。すべてが、以前とは違う。10歳の少女とは思えない成熟さがあった。
「マルタ」
回復したリーゼが、ある日私を呼んだ。
「はい、お嬢様」
「薬草のこと、もっと教えてほしいの」
「もちろんです」
私は、嬉しくなった。以前と同じように、薬草に興味を持ってくれている。
でも——次の言葉に、私は驚愕した。
「消毒について、知りたいの」
「消毒…ですか?」
「傷口を清潔にすること。感染を防ぐこと。蒸留酒で消毒する方法、知ってる?」
私は、目を見開いた。
消毒。それは、師匠アデラから教わった高度な知識だった。普通の10歳の子供が知っているはずがない。
「…お嬢様、どこでそれを?」
「…夢で見たの」
リーゼは、少し困ったような顔をした。
「長い、長い夢。そこで、たくさんのことを学んだの」
夢…?
私は、何も言えなかった。でも、確信していた。この子の中で、何かが変わった。何か特別なことが起きた。
◇
それからのリーゼは、まるで別人だった。
薬草の知識を、恐るべき速さで吸収していく。いや、吸収というより——思い出しているような。
「このヤロウは、止血だけじゃなくて、抗炎症作用もあるのよね」
「…その通りです」
「エキナセアは免疫賦活。でも、長期使用は避けた方がいい」
「…はい」
私が教えていないことを、リーゼは知っていた。まるで、どこかで学んできたかのように。
ある日、私は思い切って聞いた。
「お嬢様…失礼ですが、その知識は本当に夢で?」
リーゼは、しばらく黙っていた。そして、真剣な目で私を見た。
「マルタ。あなたは、信じてくれる?」
「何をでしょう」
「私が…普通じゃないってこと」
私は、深く頷いた。
「信じます」
「…」
「お嬢様は、倒れる前から普通ではありませんでした」
リーゼが、驚いた顔をした。
「私は、30年薬草師をしてきました。たくさんの人を見てきました」
私は、静かに言った。
「お嬢様には、最初から何か特別なものがありました。でも、倒れてから…それが、もっとはっきりしたように思います」
「…」
「理由は問いません。ただ、私はお嬢様の味方です」
リーゼの紫の瞳が、揺れた。そして——初めて、本当の笑顔を見せてくれた。
「ありがとう、マルタ」
その笑顔は、8歳の頃から知っている少女のものだった。でも、同時に、もっと深い何かを秘めた、大人の女性の笑顔でもあった。
◇
それから、私たちの関係は変わった。
主人と使用人ではなく、師弟でもなく——対等な協力者のような関係に。
「マルタ、この薬草の組み合わせはどう思う?」
「お嬢様、それは相乗効果がありますね。でも、この薬草を加えると——」
「そう、副作用が出る可能性がある。だから、こっちに変えた方がいいかも」
まるで、同僚と議論しているようだった。10歳の少女と、50歳の薬草師が。
でも、不思議と違和感はなかった。むしろ、楽しかった。
師匠アデラと議論していた頃を思い出す。あの頃の私は、師匠から学ぶ立場だった。でも今、リーゼとは——互いに学び合っている。
いや、正直に言えば、私の方が学ぶことが多かった。
リーゼは、私の知らない知識を持っていた。消毒の重要性。感染症の原因。体の仕組み。すべてが、この世界の常識を超えていた。
「お嬢様…その知識は、一体どこから?」
何度も聞きたくなった。でも、リーゼが話してくれるまで、待つことにした。
◇
ある夜。リーゼが、私を庭に呼んだ。
星が、美しく輝いていた。
「マルタ。話したいことがあるの」
「はい」
リーゼは、深呼吸をした。そして、静かに語り始めた。
「私は…前の人生の記憶があるの」
「前の人生…?」
「生まれる前の。別の世界で生きていた記憶」
私は、驚きながらも、黙って聞いた。
「その世界で、私は医師だった。人を救う仕事をしていた」
「医師…」
「たくさんの知識があった。でも、28歳で死んでしまった」
リーゼの声が、少し震えた。
「目が覚めたら、この体に生まれ変わっていた。最初は、何が起きたか分からなかった。でも、10歳の時に倒れて…すべての記憶が戻ったの」
私は、涙が出そうになった。
「そうだったんですね…」
「信じる?」
「信じます」
私は、迷わず答えた。
「お嬢様が嘘をつく人ではないことは、よく知っています」
「…」
「それに、説明がつきます。お嬢様の知識。成熟さ。すべてが」
リーゼは、泣きそうな顔をした。
「ありがとう、マルタ…」
「こちらこそ」
私は、リーゼの手を握った。
「私は、30年間ずっと、誰かを待っていました」
「え?」
「知識を継承できる人を。師匠から受け継いだものを、次に渡せる人を」
私の目から、涙が溢れた。
「でも、誰も残らなかった。何人か弟子を取ったけど、みんな辞めてしまった」
「…」
「諦めかけていた時に、お嬢様に出会いました」
私は、リーゼの目を見つめた。
「お嬢様こそ、私が待っていた人です」
「マルタ…」
「いえ、違いますね」
私は、首を振った。
「お嬢様は、私が知識を渡す相手じゃない。お嬢様と一緒に、もっと大きなことができる」
「…」
「お嬢様には、私にない知識がある。私には、この世界で30年培った経験がある」
私は、リーゼの手を強く握った。
「一緒に、人を救いましょう」
リーゼの紫の瞳から、涙が流れた。
「…はい。一緒に」
星空の下、私たちは誓った。二人で、この世界の医療を変えていくことを。
◇
それから、私たちは本格的に動き始めた。
リーゼは、伯爵様に診療所の設立を願い出た。最初は反対されたが、熱意と知識で説得した。
「お父様。私には、人を救える知識があります」
「しかし、お前はまだ10歳だ」
「年齢は関係ありません。知識と技術があれば、誰でも人を救えます」
最終的に、伯爵様は許可を出してくれた。屋敷の一室を診療所として使うことになった。
「マルタ、準備を手伝って」
「はい、お嬢様」
私たちは、診療所の準備を始めた。薬草の在庫。器具の消毒。診察台の設置。すべてを、二人で整えた。
そして、診療所が開いた日。
村人たちが、次々と訪れた。
「本当に、10歳のお嬢様が診てくれるのか?」
「マルタさんが一緒なら、大丈夫だろう」
最初は、半信半疑だった人々も、リーゼの診察を受けて驚いた。
「この痛みは、ここから来ているのね」
「薬草を処方するわ。これを、1日3回煎じて飲んでね」
「それから、清潔に保つこと。手をよく洗って」
的確な診断。分かりやすい説明。そして——実際に症状が良くなる。
「すごい…本当に治った…」
「リーゼお嬢様は、神様からの贈り物だ…」
村人たちの間に、リーゼの評判が広がっていった。
◇
私は、リーゼの隣で働きながら、深い感動を覚えていた。
30年前、師匠アデラに出会った時のことを思い出す。あの時、私は何もできない農家の娘だった。でも、師匠が知識を与えてくれた。
そして今、私はリーゼと共に働いている。
でも、リーゼは私の弟子ではない。むしろ、私が学ぶことの方が多い。
「マルタ、この症状は感染症の兆候よ」
「感染症…」
「目に見えない小さな生き物が、体の中で悪さをしているの」
「目に見えない…」
「だから、消毒が大事。傷口から入らないように」
リーゼの知識は、この世界の常識を遥かに超えていた。
私は、一つ一つ必死に覚えた。50歳の老婆が、10歳の少女から学ぶ。滑稽かもしれない。でも、知識に年齢は関係ない。師匠アデラも、そう言っていた。
「学ぶのに、遅すぎることはない」
その言葉を、今改めて噛みしめていた。
◇
ある夜。診療所の片付けを終えて、私たちは庭で休んでいた。
「マルタ」
「はい」
「私、あなたがいてくれて本当に良かった」
リーゼが、静かに言った。
「この世界に来て、最初は不安だった。誰も、私のことを理解してくれないと思っていた」
「…」
「でも、マルタは違った。信じてくれた。一緒に働いてくれた」
リーゼの目に、涙が浮かんでいた。
「ありがとう」
私も、涙が溢れた。
「こちらこそ、ありがとうございます」
「え?」
「私は、30年間孤独でした」
私は、空を見上げた。
「夫を亡くし、師匠を亡くし、一人で薬草師を続けてきました」
「…」
「知識を継承したくても、誰も残らなかった。このまま、私の代で終わってしまうのかと——」
私は、リーゼを見た。
「でも、お嬢様に出会えた。一緒に働ける仲間ができた」
「マルタ…」
「私の人生で、一番幸せな時間です」
リーゼが、私の手を握った。小さな、温かい手。でも、その中には、前世の記憶を持つ大人の魂が宿っている。
「これからも、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
星が、美しく輝いていた。
50歳の薬草師と、10歳の転生者。不思議な組み合わせかもしれない。でも、私たちは最高のパートナーだった。
これから、もっと多くの人を救える。もっと大きなことができる。
私は、確信していた。
師匠アデラ。トーマス。見ていてください。
私は今、人生で最も輝いています。




