第5話 ハイムダル家への奉公
新しい人生が、始まろうとしていた。
マルタ、48歳。ハイムダル辺境伯爵家。そこで、私は運命と出会うことになる。
◇
面接の日。私は、緊張していた。貴族の屋敷で働くなど、農家の娘だった私には想像もできないことだった。
「マルタ様、こちらへどうぞ」
執事が、私を応接室に案内した。そこには、ハイムダル辺境伯爵と辺境伯爵夫人が座っていた。
「初めまして、マルタと申します」
私は、深く頭を下げた。
「村長から、話は聞いています」
伯爵は、穏やかな目をしていた。
「薬草師として、長年村で働いてこられたとか」
「はい。30年近くになります」
「素晴らしい」
伯爵夫人が、微笑んだ。
「実は、我が家には小さな子供たちがおりまして、健康管理ができる方を探していたのです」
「光栄です」
私は、再び頭を下げた。
「では、採用ということで」
伯爵は、立ち上がった。
「よろしくお願いします、マルタ」
「はい。精一杯務めさせていただきます」
こうして、私はハイムダル辺境伯爵家のメイド兼看護助手になった。
◇
初めて屋敷に入った日。その大きさに、圧倒された。
広い廊下。高い天井。美しい調度品。すべてが、私の村の家とは違っていた。
「こちらが、あなたのお部屋です」
先輩メイドが、小さな部屋を案内してくれた。質素だが、清潔な部屋。ベッドと、机と、小さな窓。
「ありがとうございます」
「お仕事は、明日から。今日はゆっくり休んでください」
先輩メイドは、優しく微笑んで去っていった。
私は、一人部屋に残された。窓から、庭が見えた。美しく手入れされた、薬草園。
ああ、薬草が。思わず、近づきたくなった。
◇
翌日。仕事が始まった。
掃除。洗濯。配膳。メイドとしての基本的な仕事は、慣れないことばかりだった。
でも、先輩メイドたちが丁寧に教えてくれた。
「マルタさん、これはこうするんですよ」
「食器は、こう並べます」
「伯爵様のお茶は、この温度で」
覚えることが、たくさんあった。48歳で、新しい仕事を学ぶのは大変だった。でも、頑張らなければ。
◇
夜、一人部屋に戻ると、涙が溢れた。
「私は、何をしているんだろう……」
30年間、薬草師として生きてきた。村では頼りにされていた。でも、ここでは何もできない新人。若いメイドたちに教えてもらう立場。
「この歳で……こんなこと……」
屈辱ではなかった。ただ、不安だった。
自分の居場所がない。30年かけて築いたものが、すべて無意味になったような気がした。
◇
でも、翌朝。
先輩メイドが、笑顔で言ってくれた。
「マルタさん、昨日より上手になってますよ」
「本当ですか……」
「はい。すぐ覚えられますよ、きっと」
その言葉に、少し救われた。
一歩ずつ。それでいい。私は、30年かけて薬草師になった。今度も、少しずつ慣れていけばいい。
◇
3日目。伯爵夫人が、私を呼んだ。
「マルタ、子供たちを紹介します」
応接室には、2人の子供がいた。
「長男のエーリヒです。11歳」
しっかりした顔立ちの少年が、頭を下げた。
「そして、長女のリーゼです。8歳」
次に、小さな少女が前に出た。
銀色の髪。紫の瞳。小さな体。でも、その目は——
何だろう、この感覚。普通の8歳の子供とは、違う。まるで、大人のような深い光があった。
「初めまして、マルタ」
リーゼは、丁寧に頭を下げた。その仕草は、子供らしくない優雅さがあった。
「初めまして、リーゼお嬢様」
私も、頭を下げた。
リーゼは、じっと私を見つめていた。まるで、何かを見透かしているような、不思議な視線だった。
◇
仕事に慣れてきた頃。私は、子供たちの健康管理も任されるようになった。
「エーリヒ様、少し風邪気味ですね」
「はい、少し喉が痛いです」
エーリヒ様は、素直に答えてくれた。でも、リーゼは違った。
「マルタ、私は大丈夫です」
いつも、そう言う。診察を受けるのを嫌がるわけではない。ただ、自分の体調を完璧に把握しているような、そんな雰囲気があった。
不思議な子だ。
◇
ある日。私は、庭の薬草園で作業をしていた。薬草の手入れ。これは、私の得意分野だった。
「マルタ」
背後から、声がした。振り向くと、リーゼが立っていた。
「リーゼお嬢様」
「その薬草、何ですか?」
リーゼは、興味深そうに聞いた。
「これは、カモミールです」
「カモミール…」
「鎮静作用があります。お茶にして飲むと、よく眠れますよ」
「へえ…」
リーゼは、薬草を見つめた。その目は、真剣だった。
「他にも、教えてくれますか?」
「もちろんです」
私は、嬉しくなった。久しぶりに、薬草に興味を持ってくれる人がいた。
「これは、ラベンダー。頭痛に効きます」
「これは、ペパーミント。消化を助けます」
「これは、エキナセア。免疫を高めます」
リーゼは、一つ一つ真剣に聞いていた。そして、驚くべきことに、一度聞いただけですべて覚えているようだった。
「カモミールは鎮静、ラベンダーは頭痛、ペパーミントは消化…」
リーゼが、復唱する。
「…すごいですね、リーゼお嬢様」
「え?」
「一度で、全部覚えられるなんて」
リーゼは、少し困ったような顔をした。
「…普通のことだと思いますけど」
普通…? 8歳で、これが普通…?
私は、改めてこの子の特別さを感じた。
◇
それから、リーゼは時々、私の薬草作業を手伝いに来るようになった。
「マルタ、今日は何をしますか?」
「今日は、薬草を乾燥させます」
「どうやって?」
「風通しの良い場所に吊るして、1週間ほど——」
リーゼは、熱心に聞いて、そして完璧に実行した。手先も、器用だった。薬草を丁寧に束ねて、吊るす。8歳とは思えない、正確さ。
「リーゼお嬢様は、薬草に興味があるのですか?」
ある日、私は聞いた。
リーゼは、少し考えてから答えた。
「…はい。人を救える知識に、興味があります」
「人を、救える…」
「薬草は、病気を治せるんですよね?」
「はい」
「なら、もっと知りたいです」
その目は、真剣だった。8歳の子供の目ではなく、何か強い意志を持った人の目だった。
この子は、本当にただ者ではない。
◇
半年が過ぎた。私は、ハイムダル家での生活に慣れていた。
週に2日、村に戻って診療する。残りの5日は、屋敷で働く。忙しいが、充実していた。
そして、リーゼとの時間が増えていった。薬草の手入れ。調合の手伝い。時には、簡単な治療の見学。
リーゼは、すべてを吸収していった。スポンジのように。いや、それ以上に。一度教えたことは、二度と忘れない。応用も、すぐにできる。
この子は、天才だ。私は、確信していた。
でも、同時に、何か秘密がある。この子には、8歳の子供が持つはずのない何かがある。まるで、大人の魂が子供の体に入っているような。
でも、それは私が口にすることではなかった。
◇
ある日。リーゼが、私に聞いた。
「マルタ。あなたは、どうして薬草師になったんですか?」
私は、少し驚いた。8歳の子供が、そんな質問をするとは。
「…私は、昔弟が病気になったんです」
「弟?」
「はい。15歳の時、高熱を出して——」
私は、静かに語り始めた。
「その時、師匠が薬草で治してくれたんです」
「それで、薬草師に?」
「はい。誰かを救いたいと思って——」
リーゼは、真剣に聞いていた。
「…でも、救えなかった人もいます」
私の声が、震えた。
「私の夫は、疫病で亡くなりました」
「…」
「師匠も、同じ疫病で——」
リーゼは、静かに私の手を握った。小さな、温かい手。
「辛かったんですね」
「…はい」
「でも、マルタは諦めなかった」
「…」
「ずっと、薬草師を続けてきた」
リーゼの紫の瞳が、私を見つめた。
「それは、すごいことです」
その言葉に、私の目から涙が流れた。
「ありがとうございます…リーゼお嬢様…」
リーゼは、優しく微笑んだ。その笑顔は、8歳の少女のものではなく、まるで年長者が後輩を励ますような、不思議な優しさがあった。
◇
1年が過ぎた。リーゼは、9歳になっていた。
そして、驚くべきことに、もう基本的な薬草の知識をすべて覚えていた。50種類以上の薬草の名前。効能。使い方。すべてを。
「リーゼお嬢様…本当にすごいです」
私は、心から感嘆した。
「私が師匠から学ぶのに3年かかったことを、1年でマスターしてしまうなんて」
リーゼは、少し照れたように笑った。
「マルタが、いい先生だからです」
「いえ…」
私は、確信していた。この子こそ、私が30年間待っていた人だ。いや、それ以上の人。この子なら、私の知識を受け継ぐだけではなく、もっと大きなことを成し遂げるだろう。
師匠。トーマス。見ていてください。ようやく、見つけました。この知識を、継承できる人を。
49歳の春。私の心は、30年ぶりに希望で満たされていた。
リーゼ・ハイムダル。9歳の少女。彼女こそが、私の人生の最後の使命。そして、最大の希望だった。




