第11話 最初の医療介入 ①
木剣を振る音が、秋の冷たい空気を切り裂いた。
静かな朝の空気に、規則的な打撃音だけが響いている。
私は診療所の窓から、訓練場で素振りをする兄の姿を眺めていた。
エーリヒ。十四歳になった兄は、以前にも増して騎士見習いとしての訓練に励んでいる。
規則正しい剣の軌跡。力強い踏み込み。
……ああ、お兄ちゃん、本当に立派になったな。
私はそう思いながら、机の上の縫合練習用の革に針を刺した。
一年が経った。
十一歳の誕生日を過ぎ、私の手先は格段に器用になっていた。
布から始めた縫合練習は、今では厚い革にも針を通せるようになった。
針を持つ指の震えも、ほとんどなくなった。
刺入角度、糸の張力、結びの強さ。
何千回と繰り返した動作が、この小さな手に染み込んでいる。
でも、それはあくまで練習だ。
実際の人間に対して医療行為を行ったことは、まだない。
屋敷内で軽い怪我の手当てをしたり、村人の相談に乗ったりする程度。
本格的な治療は、まだ。
針を革に刺す。引く。結ぶ。
繰り返し、繰り返し。
……いつか、この技術が必要になる日が来る。
そう信じて、私は毎日練習を続けていた。
窓の外では、エーリヒが休憩を取り、水を飲んでいる。
その時だった。
「リーゼ様!大変です!」
扉が勢いよく開き、若い騎士見習いが飛び込んできた。
顔は蒼白で、息は荒い。
「どうしたんですか?」
私は立ち上がった。胸に嫌な予感が走る。
「エーリヒ様が…訓練中に…!」
その瞬間、世界が止まった。
「どこですか!」
私は針を放り出し、走り出した。
「訓練場です!早く…!」
冷たい秋雨が降り始めていた。
灰色の空から落ちる雨粒が、顔を打つ。
でも、そんなことは気にならなかった。
訓練場に着くと、数人の騎士たちが誰かを囲んでいた。
その中心に、エーリヒが座り込んでいる。
右腕を押さえている。
その指の間から、赤黒い何かが滴り落ちている。
血だ。
「お兄様!」
私は駆け寄り、兄の隣に膝をついた。
雨に濡れた地面が、冷たく固い。
「リーゼ…大丈夫だ、ちょっと切っただけ…」
エーリヒは平静を装っているが、その顔は痛みで歪んでいる。
唇が青白い。冷や汗が額に浮かんでいる。
「見せてください」
私は落ち着いた声で言った。
心臓は激しく鳴っているが、頭は不思議なほど冷静だった。
医師としての本能が、恐怖を押しのけていた。
エーリヒがゆっくりと手を離す。
瞬間、医師としての観察眼が発動する。
右前腕部——橈骨と尺骨の中間。
皮膚が裂け、その下の組織が露出している。
深い裂傷。
長さ約十センチ。
深さ——目視で約2cm。筋層まで達している。
傷口の両端が開いている。
筋繊維が断裂し、赤い筋肉組織が露わになっている。
血が流れ出る。
赤黒い。酸素を失った静脈血の色。
雨に混じって、腕を伝い、地面に滴る。
鉄のような、生臭い匂いが鼻をつく。
吐き気がする。でも、飲み込む。
出血のパターンを観察する。
脈動していない。
つまり、動脈性ではない。静脈性の出血だ。
傷口の奥を見る。
手首に走る橈骨動脈は無事だった。
わずかにずれていたおかげで、致命傷は避けられた。
尺骨神経——これも無事。
もし切れていたら、手指の麻痺が起きる。
屈筋群——部分断裂。でも、完全断裂ではない。
縫合すれば、機能は回復するはずだ。
診断は一瞬で済んだ。
でも、手の震えが止まらなかった。
……お兄ちゃんを助けなきゃ。
筋層に達する深い裂傷。大血管・神経損傷なし。
縫合適応——即座に。
「誰か!清潔な布と、煮沸した水、それから蒸留酒を!針と糸も!」
叫ぶ声に、一瞬、場が凍りついた。
十一歳の少女の指示に、誰もすぐには動けなかった。
でも、私の手が血で染まっているのを見て、最初の一人が走り出した。




