第4話 知識の継承
春が来た。
マルタ、28歳。トーマスと師匠を失って、3ヶ月。私は、ようやく動き始めた。
◇
師匠アデラの家。村人たちは、「マルタに譲る」と言ってくれた。
「師匠の後継者は、あなたです」
「この家を、使ってください」
私は迷ったが、受け入れることにした。師匠の知識を継承するなら、この家で薬草師として生きるべきだと思った。
◇
家の中を、整理し始めた。
師匠の私物。薬草の道具。そして、膨大な記録。本棚には、何十冊ものノートが並んでいた。
「これ、全部…師匠が書いたもの…」
私は、一冊を手に取った。開くと、丁寧な文字で、薬草の記録が記されていた。
「ヤロウ:止血作用。傷口に粉末を振りかける。注意点——」
すべてが、詳細に書かれている。効能。使用法。注意点。実際の治療例。50年以上かけて、師匠が蓄積してきた知識だった。
「すごい…」
私は、一冊一冊、読み始めた。
◇
1週間かけて、すべてのノートに目を通した。そこには、私が知らない知識も、たくさんあった。
「この薬草の組み合わせ…私、知らなかった」
「こんな使い方もあるのか…」
師匠は、私にすべてを教えてくれたと思っていた。でも、まだ伝えきれていない知識があったのだ。
師匠…もっと時間があれば、もっと教えてもらえたのに。
後悔が、胸を締め付けた。
でも、同時に決意も固まった。この知識を、無駄にしてはいけない。師匠が50年かけて蓄積した知恵を、私が守らなければ。
◇
私は、師匠のノートで最も重要な部分を、書き写すことにした。
紙は高価だ。村の薬草師の収入では、何十冊もの新しいノートを買う余裕はない。だから、私が知らなかった知識、特に重要な処方、珍しい治療例だけを選んで記録することにした。
普段の練習には、木板に蝋を塗ったものを使った。何度も書いて消せるから、紙を無駄にしなくて済む。完全に覚えたものだけを、貴重な紙に清書した。
毎日、数時間。患者の治療が終わった後、夜遅くまで、ペンを握り続けた。師匠のノートを読み、重要な部分を選び、木板に書いて覚え、紙に記録する。
それは、地道な作業だった。でも、不思議と苦痛ではなかった。むしろ、師匠と対話しているような気がした。
師匠、この薬草の組み合わせ…面白いですね。
ああ、この患者のケース、私も似たのを診たことがあります。
一人で呟きながら、私はペンを動かし続けた。
◇
半年かけて、重要な知識を書き写し終えた。
新しいノート、5冊。そこには、私が知らなかった師匠の知識、最も貴重な処方と治療例が記録されていた。すべてを写すことはできなかったが、最も大切なものは残せた。
「終わった…」
私は、深く息をついた。疲れていた。でも、達成感があった。
師匠。あなたの知識を、守りました。
◇
ある日、村人が訪ねてきた。
「マルタさん。相談があるんです」
「何でしょう?」
「うちの息子、薬草師になりたいって言ってるんです」
「え?」
「マルタさんに、弟子入りさせてもらえませんか?」
その言葉に、私は驚いた。弟子? 私が、誰かに教える?
「でも、私なんて…」
「いいえ。マルタさんは、アデラ様の後継者です」
村人は、真剣な目をしていた。
「息子に、薬草のことを教えてください」
私は少し考えた。そして、師匠の言葉を思い出した。
「知識を…継承しなさい…」
そうだ。師匠は、私に知識を伝えてくれた。なら、私も誰かに伝えるべきだ。
「…分かりました」
私は、頷いた。
「お子さんを、弟子にします」
◇
翌週。10歳の少年、ハンスが私の元に来た。
真面目そうな、小さな少年。
「よろしくお願いします、マルタ先生」
「よろしく、ハンス」
私は少し緊張していた。教えるのは、初めてだった。でも、師匠がしてくれたように、丁寧に一つ一つ教えていこうと思った。
「まずは、薬草の名前から覚えようか」
「はい!」
ハンスは、目を輝かせた。その姿を見て、私は少し心が温かくなった。
そうだ。知識は、こうして継承されていくんだ。
◇
でも、3ヶ月後。ハンスは、辞めてしまった。
「ごめんなさい、マルタ先生」
ハンスは、申し訳なさそうに言った。
「僕、やっぱり薬草師向いてないみたいです」
「…そう」
「覚えることが多すぎて…」
確かに、薬草師は大変な仕事だった。覚えることが山ほどある。間違えれば、人の命を奪うこともある。
「分かったわ。無理はしなくていいのよ」
私は、ハンスの頭を撫でた。
「自分に合った道を、見つけてね」
「はい…ありがとうございました」
ハンスは、去っていった。私は、一人残された。
やっぱり、難しいのかな。誰かに、知識を継承するのは。
◇
それから、何人か弟子志望者が来た。でも、みんな途中で辞めてしまった。
「覚えることが多すぎる」
「もっと楽な仕事がいい」
「字を書くのが苦手で…」
理由は、様々だった。
私は、諦めなかった。それでも、教え続けた。でも、結局誰も残らなかった。
◇
29歳の冬。私は、一人で師匠の家に座っていた。
窓の外は、雪が降っている。静かで、寒い夜。
誰にも、継承できないのかな。この知識は、私の代で終わってしまうのかな。
不安が、胸を締め付けた。
でも——いや、諦めない。
私は、師匠のノートを手に取った。
いつか、必ず、この知識を受け継いでくれる人が現れる。その日まで、私は待つ。そして、記録し続ける。
私は、新しいノートを開いた。そこに、自分の経験を書き始めた。
師匠から学んだこと。自分で試したこと。患者の治療記録。すべてを、丁寧に記録した。
いつか、この記録が誰かの役に立つ日が来る。そう、信じて。
◇
それから、私は孤独な日々を過ごすことになった。
弟子はいない。夫もいない。師匠もいない。ただ一人で、薬草師として生きる。
村人の治療をして。記録をつけて。薬草を育てて。淡々とした日々。
でも、私は諦めなかった。いつか、必ず、この知識を継承できる人が現れる。
29歳の冬。私の使命は、明確になった。
知識を守ること。記録し続けること。そして、いつか現れるその人に、すべてを託すこと。




