第2話 恋と薬草
恋は、突然やってきた。
マルタ、25歳。薬草師として、村で5年。人生で初めて、誰かを愛した。
◇
それは、夏の午後のことだった。
「マルタさん! 大変です!」
村人が、駆け込んできた。
「トーマスが、怪我を!」
「トーマス?」
弟の名前かと思ったが、違った。
「大工のトーマスです! 木材が倒れて、足を——」
私は、すぐに医療鞄を持って駆け出した。
◇
現場には、若い男性が倒れていた。
トーマス・シュミット。村の大工。25歳、私と同い年だった。
彼の右足から、血が流れている。木材が倒れて、足を切ったらしい。
「トーマスさん!」
私は、彼のそばに膝をついた。
「マルタさん…」
彼は、苦痛に顔を歪めていた。
「すぐに治療します。我慢してください」
私は、傷を確認した。深い切り傷。でも、骨は折れていないようだ。
「まず、止血を」
私は、ヤロウの粉末を傷口に振りかけた。止血作用がある薬草だ。次に、清潔な布で圧迫する。
「痛いですが、我慢してください」
「…はい」
トーマスは、歯を食いしばった。
血が、徐々に止まってきた。
「良かった…」
私は、安堵した。次に、傷口を洗浄する。煮沸した水で、丁寧に。
そして縫合。針と糸で、皮膚を縫い合わせる。これは、師匠アデラから教わった技術だった。
「動かないでくださいね」
「…はい」
トーマスは、私の顔を見つめていた。その視線に、少し動揺した。
でも、手は止めなかった。一針、一針、丁寧に。
10分後。縫合が終わった。
「終わりました」
私は、包帯を巻いた。
「ありがとうございます…」
トーマスは、安堵の表情を見せた。
「1週間は、安静にしてください。傷口が開くと大変ですから」
「はい」
「毎日、様子を見に来ます」
「…ありがとうございます、マルタさん」
その笑顔を見て、私の心臓が大きく跳ねた。
何だろう、この感覚。
◇
翌日から、私はトーマスの家に通い始めた。
傷の確認。包帯の交換。薬草軟膏の塗布。毎日、彼と話すようになった。
「マルタさんは、いつから薬草師に?」
「5年前です。師匠アデラに教わりました」
「すごいですね。僕なんて、字も読めないのに」
「私も、最初は読めませんでしたよ」
「え?」
「師匠が、教えてくれたんです」
私は、微笑んだ。
「学ぶのに、遅すぎることはないと思います」
トーマスは、嬉しそうに笑った。
「そうですね」
彼は、優しい人だった。大工として、村人たちの家を直し、困っている人がいれば手伝う。そんな人だった。
私は、彼と話すのが楽しかった。
◇
1週間後。傷は、順調に治っていた。
「もう、大丈夫そうですね」
私は、包帯を外した。縫合跡は、綺麗に塞がっている。
「では、抜糸しますね」
「抜糸…?」
「縫い合わせた糸を、抜くんです。もう傷口は塞がっているので」
私は、小さなハサミと鉗子を取り出した。一針ずつ、丁寧に糸を切って抜いていく。師匠アデラから教わった通りに。
「少し引っ張られる感じがしますが、痛くはないはずです」
「…はい」
トーマスは、じっと私の顔を見ていた。その視線に少し緊張したが、手は止めなかった。
数分後、すべての糸を抜き終えた。
「終わりました」
傷口は綺麗に塞がっていた。縫合の跡は残るが、きちんと治っている。
「マルタさんのおかげです」
「いえ…」
「本当に、ありがとうございました」
トーマスは、深く頭を下げた。
「これで、治療は終わりですね」
私は、少し寂しかった。もう、毎日彼に会う理由がなくなる。
「あの…マルタさん」
「はい?」
「よかったら、今度一緒に村祭りに行きませんか?」
その言葉に、私の心臓が跳ねた。
「え…?」
「お礼、というか…その、僕ももっとマルタさんと話したくて…」
トーマスは、顔を赤くしていた。
私も、顔が熱くなった。
「…はい。喜んで」
◇
村祭りの日。私は、久しぶりに綺麗な服を着た。
普段は、薬草師の仕事着ばかり。でも、今日は、母が貸してくれた淡い青のドレス。髪も、丁寧に結った。
「マルタ、綺麗よ」
母が、微笑んだ。
「お母さん…恥ずかしい」
「いいのよ。女の子なんだから」
母は、優しく私の肩を抱いた。
「楽しんできなさい」
「…はい」
◇
村の広場は、賑わっていた。屋台。音楽。踊り。
トーマスは、約束の場所で待っていた。
「マルタさん!」
彼は、私を見て少し驚いた表情を見せた。
「…綺麗ですね」
「ありがとうございます」
私は、恥ずかしくて下を向いた。
「じゃあ、行きましょうか」
「はい」
私たちは、祭りを回った。屋台で食べ物を買って。音楽を聴いて。踊りを見て。すべてが、楽しかった。
トーマスと一緒にいると、世界が明るく見えた。
◇
夜、村の丘に座った。星が、美しく輝いていた。
「マルタさん」
「はい」
「僕、ずっと思ってたんです」
トーマスは、空を見上げたまま言った。
「マルタさんは、すごいって」
「…え?」
「薬草の知識があって、人を救えて——」
彼は、私を見た。
「でも、それだけじゃない」
「…」
「優しくて、真面目で、一生懸命で」
トーマスの目は、真剣だった。
「僕は、マルタさんが好きです」
その言葉に、私の心臓が激しく鳴った。
「トーマスさん…」
「僕と、付き合ってください」
私は、涙が出そうになった。嬉しかった。こんなに嬉しいことがあるなんて。
「…はい」
私は、頷いた。
「私も、トーマスさんが好きです」
トーマスは、嬉しそうに笑った。そして、私の手を握った。
温かい手だった。大きな、優しい手。
私たちは、しばらく何も言わずに、ただ手を繋いで、星を見ていた。
25歳の夏の夜。私は、初めて恋を知った。
◇
それから、私たちは付き合い始めた。
トーマスは、よく私の仕事を手伝ってくれた。薬草を干す棚を作ってくれたり。重い荷物を運んでくれたり。
村人たちも、私たちを温かく見守ってくれた。
「いい相手を見つけたね、マルタ」
師匠アデラも、喜んでくれた。
「はい」
「大工と薬草師。いい組み合わせだ」
アデラは、微笑んだ。
「幸せになりなさい」
「ありがとうございます」
◇
半年後。秋の夕暮れ。トーマスが、私を村の教会に誘った。
「マルタ」
「はい」
「僕と、結婚してください」
その言葉に、私の目から涙が溢れた。
「…はい」
「本当ですか?」
「はい。喜んで」
トーマスは、私を抱きしめた。
「ありがとう、マルタ」
「こちらこそ…」
私は、彼の胸の中で静かに泣いた。嬉しくて。幸せで。私にも、こんな日が来るなんて。
貧しい農家の娘。字も読めなかった私。でも、今、薬草師として村人に頼られている。そして、愛する人と結婚できる。
人生は、変えられるのだ。努力すれば。学べば。
◇
婚約を発表した日。村中が、祝福してくれた。
「おめでとう、マルタ!」
「トーマス、いい嫁さんもらったな!」
「幸せにな!」
父も、母も、弟も、みんな喜んでくれた。
師匠アデラは、私に言った。
「マルタ。結婚しても、薬草師は続けるんだろう?」
「はい。もちろんです」
「そうかい。なら、これをあげよう」
アデラは、古い巻物を差し出した。
「これは…?」
「私の師匠から受け継いだ、薬草の記録だ」
「師匠…こんな大切なものを…」
「お前なら、大丈夫だ」
アデラは、優しく微笑んだ。
「知識は、継承されるためにある」
「…」
「お前が、いつか誰かに伝えてくれ」
私は、深く頭を下げた。
「はい。必ず」
◇
その夜、私は一人で巻物を読んだ。
古い文字。でも、読める。師匠アデラが教えてくれた文字だった。
そこには、何百年も前から受け継がれてきた薬草の知識が記されていた。どの薬草が、どんな病に効くか。どう調合するか。先人たちの、知恵と経験。
すごい。この知識を、私も受け継ぐのだ。そして、いつか誰かに伝えるのだ。
トーマスと結婚できる。薬草師として、生きていける。師匠の知識を、受け継げる。
25歳の秋の夜。私の人生は、光に満ちていた。




