第1話 師匠との出会い
私の人生が変わったのは、20歳の春だった。
マルタ。姓はない。辺境の小さな村の、貧しい農家の娘——それが、私だった。
◇
朝から晩まで、畑を耕す。麦を刈る。家畜の世話をする。それが、私の日常だった。
字も読めない。計算もできない。ただ生きるために、働く。それだけの人生だった。
でも、心のどこかでいつも思っていた。
こんな人生で、終わりたくない。
◇
ある日、畑仕事をしていた時だった。
「お姉ちゃん…なんだか、体が…」
トーマスが、鍬を持ったまま膝をついた。
「トーマス!」
私が駆け寄ると、弟の顔は真っ赤だった。額に触れると、異常な熱さ。
「父さん! トーマスが倒れた!」
父と一緒に、トーマスを家まで運んだ。
「トーマス! どうしたの!」
母が、私たちの姿を見て駆け寄ってきた。弟を寝かせると、母は泣きながらその手を握った。
15歳のトーマス。横たわったまま、体が熱で震えている。
「村の薬草師を呼んで!」
父が叫んだ。でも——
「薬草師のアデラ様は、領主の屋敷に呼ばれていて…」
使いに行った者が、戻ってきた。
「明日まで、帰らないそうです」
「明日まで…!」
父は、歯噛みした。
「それまで、トーマスが持つか…」
私は何もできなかった。ただ、弟の手を握って祈ることしか。
神様、どうか、トーマスを助けて。
◇
翌日。薬草師アデラが、ようやく来た。
70歳を超える、小柄な老婆だった。でもその目は、鋭かった。
「どれ、見せてごらん」
アデラは、トーマスを診察した。額に手を当て、瞼を開いて瞳を確認し、脈を測る。その動きは正確で、無駄がなかった。
「風邪だね。でも、熱が高い」
アデラは、鞄から薬草を取り出した。
「これを煎じて、飲ませなさい」
「はい…」
母が、震える手で薬草を受け取った。
「それから——」
アデラは、私を見た。
「あんた、娘さんだね」
「はい」
「手伝いなさい。薬草を煎じるのは、手順が大事だよ」
私は、アデラに従って台所で薬草を煎じた。
「まず、水を沸騰させる」
「次に、この薬草を入れる。量は、これくらい」
「火を弱めて、10分煮る」
「色が、このくらいになったら火を止める」
アデラは、一つ一つ丁寧に教えてくれた。
私は初めて、薬草というものを見た。乾燥した葉。独特の香り。煎じると、茶色い液体になる。すべてが、新鮮だった。
「さあ、できたよ。飲ませておやり」
母が、トーマスに薬草茶を飲ませた。苦そうな顔をしたが、トーマスは全部飲んだ。
そして——数時間後。トーマスの熱が、下がり始めた。
「トーマス!」
母が、喜びの声を上げた。
「良かった…良かった…」
父も、安堵のため息をついた。
私はアデラを見た。この老婆が、弟を救ってくれた。薬草の力で。
◇
アデラが帰ろうとした時。私は、思わず声をかけていた。
「あの…!」
「何だい?」
「私に薬草のこと、教えてください」
アデラは、驚いた表情を見せた。
「薬草を?」
「はい」
私は、深く頭を下げた。
「私、何もできないんです。字も読めない、計算もできない」
「…」
「でも、今日弟が救われるのを見て、思ったんです」
私は、顔を上げた。
「私も、誰かを救いたい。薬草の力で」
アデラは、しばらく黙っていた。そして小さく笑った。
「面白い娘だね」
「…」
「いいよ。教えてあげる」
「本当ですか!」
「ただし——」
アデラは、真剣な目をした。
「生半可な覚悟じゃ、務まらないよ」
「覚悟なら、あります」
私は、即座に答えた。
「何年かかっても、学びます」
アデラは優しく微笑んだ。
「そうかい。なら、明日から来な」
「はい!」
私は、深く頭を下げた。こうして私の、薬草師としての人生が始まった。
◇
翌日から、私はアデラの家に通い始めた。
村の外れにある、小さな家。庭には、色々な薬草が植えられていた。
「まずは、薬草の名前を覚えることから始めようか」
アデラは、一つ一つの薬草を指差した。
「これは、ヤロウ。止血に使う」
「これは、カモミール。鎮静作用がある」
「これは、セージ。喉の痛みに効く」
私は、必死に覚えようとした。でも字が読めない私には、記録ができなかった。
「困ったね」
アデラは、少し考えてから言った。
「なら、字も教えてあげよう」
「え…?」
「薬草師になるなら、記録を残せなきゃいけない」
「でも、私みたいな農民が、字なんて…」
「関係ないよ」
アデラは、きっぱりと言った。
「学びたい者には、平等に教える。それが、知識というものだ」
その言葉に私の目から、涙が溢れた。この人は、私みたいな者にも、平等に接してくれる。
◇
それから、私は毎日アデラの家に通った。
午前中は、畑仕事。午後は、アデラの元で学ぶ。厳しい日々だった。でも、充実していた。
最初は字を覚えた。次に、単語。そして、文章。半年かけて、ようやく簡単な文章が読めるようになった。
薬草の名前も、50種類以上覚えた。それぞれの効能。使い方。注意点。すべてを、木切れに記録した。
アデラは、厳しかった。
「違う! カモミールとフィーバーフューを間違えたら、大変なことになる!」
「もう一度! 最初から!」
何度も何度も、繰り返した。でも決して、見捨てなかった。
「いいかい、マルタ」
アデラは、よく言った。
「薬草師は、命を預かる仕事だ」
「一つの間違いが、人の命を奪う」
「だから完璧に覚えるんだよ」
その言葉を、私は胸に刻んだ。
◇
1年が過ぎた。私は、基本的な薬草の知識を身につけた。アデラは、次の段階に進ませてくれた。
「今日から、調合を教えるよ」
「調合…ですか?」
「そう。薬草は、単独で使うより組み合わせることで、効果が高まることがある」
アデラは、複数の薬草を取り出した。
「例えば、風邪の薬」
「エルダーフラワーで発汗を促し——」
「ペパーミントで鼻詰まりを和らげ——」
「生姜で体を温める」
「この三つを組み合わせると、相乗効果が生まれる」
私は、目を輝かせた。
「すごい…」
「でも、分量が大事だよ」
アデラは、天秤を取り出した。
「この比率を間違えると、効果が出ない。もしくは、副作用が出る」
「はい」
私は、真剣にメモを取った。
調合——それは、薬草師の真髄だった。ただ薬草を知っているだけでは、不十分。どう組み合わせるか。どの分量で使うか。それが、本当の技術だった。
◇
2年が過ぎた。私は、村人たちの簡単な治療を手伝えるようになった。
擦り傷。軽い火傷。風邪。アデラの監督の下で、治療を行った。
「よくできたね、マルタ」
アデラは、褒めてくれた。
「ありがとうございます」
「でも、まだまだだよ」
「…はい」
「薬草師は、一生学び続ける仕事だ」
アデラは、遠くを見た。
「私も、50年以上やってるけど、まだ知らないことがたくさんある」
「…」
「だから、謙虚でいなさい。そして、常に学び続けなさい」
その言葉を、私は深く心に刻んだ。
◇
ある日、村人が深い切り傷を負って運ばれてきた。
「アデラ様、大変です! 斧で足を切ってしまって…」
血が、止まらない。アデラは、素早く止血処置を行った。
「マルタ、よく見ていなさい」
「はい」
アデラは、煮沸した針と糸を取り出した。
「深い傷は、縫い合わせないと治らない」
「縫う…んですか?」
「そうだよ。皮膚を、針と糸で縫い合わせるんだ」
私は、初めて見る技術に目を奪われた。アデラの手は、老いているのに正確だった。一針、一針、丁寧に皮膚を縫い合わせていく。
「これは、私の師匠から教わった技術だ」
アデラは、作業を続けながら言った。
「薬草師は、薬草だけじゃない。時には、こういう処置も必要になる」
「…」
「マルタ、お前も覚えなさい」
「はい!」
それから、私はアデラから縫合の技術を教わった。針の持ち方。糸の通し方。皮膚を縫う間隔。何度も何度も、練習用の布で練習した。そして半年後、初めて実際の患者に施術した。手は震えたが、アデラが隣で見守ってくれた。
「よくできたよ、マルタ」
その言葉が、何よりも嬉しかった。
◇
3年が過ぎた。私は、23歳になっていた。
アデラの弟子として、村人たちからも認められ始めていた。
「マルタちゃん、診てくれる?」
「この薬草、分けてもらえる?」
人々が、私を頼ってくれる。それが、嬉しかった。
私は、誰かの役に立っている。初めて、人生に意味を感じた。
ある日、アデラが言った。
「マルタ。お前は、立派な薬草師になったよ」
「師匠…」
「私の知識の、半分くらいは伝えられたかな」
アデラは、優しく微笑んだ。
「残りの半分は、これからお前が自分で学んでいくんだ」
「はい」
私は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。師匠がいなければ、今の私はいません」
「大げさだよ」
アデラは、笑った。
「お前が、努力したからだ」
「…」
「これからも、頑張りな」
「はい!」
◇
その夜、私は一人で考えた。
3年前、私は何もできない農家の娘だった。字も読めず、将来も見えなかった。
でも、今、私は薬草師だ。人を救える技術を持っている。知識を持っている。
それは、すべて師匠アデラのおかげだった。
いつか、私もこの知識を誰かに伝えたい。
23歳の春の夜。私の人生は、ようやく意味を持ち始めていた。
薬草師として。アデラの弟子として。そして、いつか誰かに知識を継承する者として。




