第103話 命の誕生と新たな決意
妊娠九ヶ月——私の身体はもう限界に近かった。お腹は大きく張り出し、歩くのも一苦労だ。
「リーゼ、無理をするな」とアレクサンダーはいつも以上に私を気遣い、公務の合間を縫って頻繁に私の元を訪れる。
「大丈夫よ。あと少しだから」と私は微笑んで答えたが、内心では不安も抱いていた。
医師として私は出産のリスクを熟知している。特に初産。そして私のように小柄な体格では——難産になる可能性が高い。
「エリーゼ先生もアルブレヒトも待機してくれています」と侍女のアンナが優しく声をかけてくれた。
「ありがとう、アンナ」
王宮には最高の医療体制が整っている。それでも——何が起こるかは誰にもわからない。
***
それはある夜のことだった。
「……痛い」
下腹部に鈍い痛みが走った。最初は我慢できる程度だったが、次第に痛みの間隔が短くなっていく。
「陣痛……?」と私は自分の状態を冷静に分析する。痛みの周期は約十分間隔。まだ本格的な陣痛ではない。
「アンナ! アレクサンダー様を呼んで!」
「はい!」とアンナが慌てて部屋を飛び出していった。
数分後——
「リーゼ! 大丈夫か!」とアレクサンダーが息を切らして駆け込んできた。
「大丈夫。まだ初期の陣痛よ」と私はできるだけ落ち着いた声で答える。
「エリーゼ先生たちを呼んだ。すぐに来る」
「ありがとう……あっ!」
また痛みが襲ってきた。今度は先ほどより強い。
「リーゼ!」とアレクサンダーが私の手を握る。その手は震えていた。
「大丈夫……医師として私は知っているわ……これは正常な陣痛……」と私は自分に言い聞かせるように言った。
***
間もなく、エリーゼとアルブレヒト、そして助産師たちが到着した。
「リーゼ様、診察させていただきます」とエリーゼが冷静な声で言い、確実に私の状態を確認していく。
「子宮口はまだ三センチほど。本格的な陣痛までまだ時間がかかりそうです」
「……そう」と私は頷いた。医師としてその状況は理解できる。だが——患者としてこの痛みに耐えるのは、また別の話だ。
「リーゼ、俺がついている」とアレクサンダーが優しく声をかけてくれた。
「……ありがとう」と私は彼の手を強く握り返した。
***
それから長い時間が経った。陣痛の間隔は徐々に短くなっていく。十分、八分、五分——
「……痛い……!」
もう冷静ではいられなかった。痛みが全身を支配していく。
「リーゼ様、深呼吸を。吸って、吐いて」と助産師が優しく声をかけてくれる。
「はぁ……はぁ……」と私は必死に呼吸を整えようとするが、痛みは容赦なく襲ってくる。
「子宮口、全開です! いきんでください、リーゼ様!」とエリーゼの声が聞こえた。
「うっ……!」と私は全力で力を込めた。
***
「もう少しです! 頑張ってください!」と助産師の声が遠くに聞こえる。
「リーゼ! お前ならできる!」とアレクサンダーの声も——
だがもう限界だった。意識が遠のいていく。
「……出血が多すぎます! 弛緩出血です! 子宮収縮剤を!」とエリーゼとアルブレヒトの緊張した声。
(……これは危険な状態だ)と医師としての私が冷静に状況を分析していた。(出血性ショック……このままでは……)
「リーゼ! しっかりしろ!」とアレクサンダーの叫び声が遠くに聞こえた。「リーゼ様!」とエリーゼの声も——
(……ごめんなさい……まだ死ねない……この子を……この子を産まなくては……)
私は最後の力を振り絞った。
***
「……おぎゃああああ!」
赤ちゃんの泣き声が部屋中に響き渡った。
「……生まれた……?」と私はかすかな意識の中でそう思う。
「リーゼ様! 元気な男の子です!」と助産師の声が喜びに満ちていた。
「……男の子……」と私は微笑んだ。
「リーゼ! よく頑張った!」とアレクサンダーが涙を流しながら私の手を握っている。
「……見せて……」と私はかすかな声で言った。
「はい、こちらに」と助産師が赤ちゃんを私の胸に載せてくれる。
小さな、小さな命。だが確かに生きている。
「……私たちの……子供……」と私は涙を流しながらそう言った。
「ああ……俺たちの息子だ」とアレクサンダーも涙を拭いながら赤ちゃんを見つめていた。
***
「リーゼ様、まだ出血が続いています。処置を続けますので安静にしていてください」とエリーゼの声が真剣だった。
「……お願いします」と私は彼女に治療を任せた。
医師として私は自分の状態がまだ危険だと理解していた。弛緩出血は産後の重大な合併症だ。適切な処置が遅れれば命に関わる。
「子宮収縮剤、継続投与。バイタルサインの監視を強化してください」とアルブレヒトの指示が的確に飛んでいた。
「……ありがとう……アルブレヒト……」と私はかすかに微笑む。
「リーゼ先生、今は喋らないでください。体力を温存してください」と彼の声は普段の冷静さを保っていたが、その目には明らかな心配の色があった。
それからどれくらいの時間が経ったのだろうか。
「出血、止まりました。バイタルサイン、安定しています」とエリーゼと助産師の声が安堵に満ちていた。
「……よかった……」と私は深く息を吐いた。
「リーゼ……本当によく頑張ったな……」とアレクサンダーが私の額にキスをした。
「……私も……怖かったわ……」と私は正直に告白する。
医師として何度も出産に立ち会ってきた。だが自分が患者になるのは全く違う経験だった。痛み、恐怖、そして不安——それらを身をもって体験した。
「これで……わかったわ……妊婦さんたちの気持ちが……本当の意味で理解できたの」と私は微笑んで答えた。「医学書に書いてある知識だけでは足りなかった。実際に体験して初めて……患者さんの恐怖や不安がどれほど大きいかわかったのよ」
***
数日後、私の体調は徐々に回復していった。赤ちゃんはすくすくと育っており、授乳も順調だ。
「リーゼ、息子の名前を決めよう」とアレクサンダーが穏やかな笑顔で言った。
「そうね……私は『カール』という名前がいいと思うわ。『強い男』という意味よ。この子が強く、優しく育ちますように」と私は赤ちゃんを見つめながらそう言った。
「カール……いい名前だ。『カール・フォン・アーレンスベルク』——俺たちの息子にふさわしい」とアレクサンダーが満足そうに頷いた。
***
王宮には祝福の知らせが広がった。「王太子殿下と王妃殿下に男子誕生!」民衆も「王国の未来を担う新たな命だ!」「リーゼ王妃様、おめでとうございます!」と喜びの声を送ってくれた。
そして私の両親も辺境領から急いで駆けつけてくれた。
「リーゼ! よく頑張ったな!」と父ヨハンが涙を浮かべながら私を抱きしめた。
「父様……」
「私も誇りに思うわ」と母アンネも優しく微笑んでくれる。
「マルタも来てくれたの?」
「ああ、もちろんだ」とマルタが嬉しそうに赤ちゃんを見つめていた。「まあこんなに小さくて……リーゼお嬢様も、昔はこんなに小さかったのよ。それがこんなに立派に成長して……王妃様になってお母様にもなって……」とマルタは涙を拭いながらそう言った。
***
ある日、私はエリーゼとアルブレヒトを呼んだ。
「二人にお願いがあるの。私の出産記録を詳細に残してほしいの」
「出産記録……ですか?」とアルブレヒトが少し驚いた様子だった。
「ええ。私が経験したすべてのこと——陣痛の経過、出血の状況、処置の内容……すべて。それを教材にするためよ」と私は真剣な目で二人を見つめた。「私は医師でありながら、出産の恐怖を本当には理解していなかった。だから私の経験を記録して、医学生や若い医師たちに学んでもらいたいの。理論だけでなく、患者の気持ちも理解できる医師を育てるために」
エリーゼとアルブレヒトは深く頷いた。
「承知しました。必ず詳細な記録を残します」
「ありがとう」
***
数週間後、私はカールを抱きながら日記を書いた。
『カールへ
あなたが生まれた日のことは一生忘れないでしょう。
あの痛み、あの恐怖、そしてあの喜び——すべてが私を変えました。
私は医師として多くの命を救ってきました。だが命を産むことの意味を本当に理解したのは、あなたを産んだ日です。
命は奇跡です。そしてその奇跡を守ることが、医師である私の使命です。
あなたが大きくなったらこの日記を読んでください。そして知ってください。
あなたがどれほど愛されてこの世に生まれてきたかを。
母より』
私はそっと日記を閉じた。窓の外では春の陽光が降り注いでいる。新しい命が新しい季節を迎える。
「リーゼ、何を書いているんだ?」とアレクサンダーが部屋に入ってきた。
「カールへの手紙よ」
「そうか……俺も何か残したいな」
「じゃあ一緒に書きましょう。二人で」と私は微笑んで答えた。
カールは私たちの腕の中で安らかに眠っている。
***
それから私は育児に専念する日々を送ったが、医師としての仕事を完全に手放すことはできなかった。
産後一ヶ月が経った頃、私はエリーゼを呼んで尋ねた。「エリーゼ、最近の医学校の様子はどう?」
「順調です。学生たちも熱心に学んでいます」
「それはよかった……私もそろそろ復帰の準備を始めたいわ」
「リーゼ様、まだ無理はしないでください」とエリーゼが心配そうに言う。
「わかっているわ。でも医師としての私も大切にしたいの。母親であり、王妃であり、そして医師でもある。それが私の生き方だから」
「リーゼ様らしいですね。では少しずつ、無理のない範囲で復帰していきましょう」とエリーゼは優しく微笑んだ。
「ええ。カールのそばにいる時間も大切にしながら——」と私は眠っているカールを見つめた。
小さな胸が規則正しく上下している。この子の未来のためにも、より良い王国を作らなければ。医療が行き届き、誰もが安心して暮らせる国を。
***
「リーゼ、考え事か?」とアレクサンダーが部屋に入ってきた。
「ええ……これからのことを」
「まだ産後間もないのにもう働くことを考えているのか?」
「……あなたは反対?」
「いや、お前らしいと思っているよ」とアレクサンダーは穏やかに微笑んだ。「お前が医師であることを俺は誰よりも理解している。だから無理のない範囲でお前の道を歩めばいい。カールのことは俺も一緒に育てる。王妃の仕事もできる限りサポートする。だから医師としてのお前も諦める必要はない」
「……ありがとう」と私は涙を浮かべながら彼の手を握った。
***
窓の外を見ると、春の陽光が王都を照らしていた。
新しい命が生まれ——新しい季節が始まる。
私の人生も新たな段階に入った。母親として、王妃として、そして医師として——
これから先、多くの困難があるだろう。育児と医師業務の両立は決して容易ではない。
だが私には支えてくれる人々がいる。アレクサンダー、エリーゼ、アルブレヒト、そして医学校の仲間たち。彼らと共にあれば、私はどんな困難も乗り越えられる。
「リーゼ、これからもよろしく頼む」
「こちらこそ。これからも一緒に歩んでいきましょう」
私はカールを優しく抱きしめながら、未来への希望を胸に抱いた。
母親として子供の成長を見守り、王妃として国を支え、医師として人々の命を救う——それが私の生き方。そしてその生き方を、私は誇りに思っている。
新しい命と共に——私の新たな人生が始まる。
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