第102話 新しい命と新しい希望
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出血熱との戦いから三ヶ月が経った。初夏の陽射しが王宮の窓から差し込む中、私は研究室の机で書類を確認していた。だが——体調がおかしい。
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最初に気づいたのは二週間前だった。朝の吐き気、めまい、いつもより疲れやすい。最初は過労だと思った。出血熱の対応で心身ともに消耗していたから。でも——症状が続いている。
「リーゼ先生、大丈夫ですか?」とエルヴィンが心配そうに尋ねる。
「ええ、大丈夫よ」と私は微笑んだ。
でも心の中では、ある可能性を考えていた。
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その日の午後、エリーゼが研究室を訪ねてきた。
「リーゼ、少し話があるの。あなた、最近顔色が悪いわ。それに吐き気があるでしょう」とエリーゼが真剣な表情で言う。
「……どうして分かるの?」
「私、医師よ。それに親友だもの」とエリーゼが微笑んで私の手を取った。「リーゼ、もしかして——妊娠してるんじゃない?」
私は深呼吸をする。
「……実は、私もそう思っていたの。でも確信が持てなくて」
「なら、診察しましょう。私が診るわ」とエリーゼが優しく言った。
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医学院の診察室でエリーゼが丁寧に診察してくれた。腹部の触診、脈拍の確認——そして。
「リーゼ、おめでとう。妊娠してるわ」とエリーゼが涙を浮かべて微笑んだ。
その言葉を聞いた瞬間、私の目から涙が溢れた。
「本当に……?」
「ええ。おそらく二ヶ月くらいね」とエリーゼが頷く。
「私……母親に……」
前世では子供を持つことはなかった。仕事に追われ、そんな余裕はなかった。でも今——新しい命が私の中に宿っている。
「エリーゼ……ありがとう」と私は親友を抱きしめた。
「これから大変よ。王妃として、医師として、そして母として——でもあなたなら大丈夫。私がずっと支えるから」とエリーゼが笑った。
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その夜、夫婦の私室で二人きりでアレクサンダーに報告した。
「殿下、お話があります」
「何だい?」と夫が優しく尋ねる。
私は勇気を出して言った。「私……赤ちゃんができました」
沈黙。夫の目が大きく見開かれた。
「……本当に?」
「はい」と私は頷く。
夫が突然、私を抱き上げた。
「やった! やったぞ、リーゼ! 僕たちの子供だ!」と夫が涙を流しながら笑っている。「ありがとう、リーゼ。ありがとう……」
夫が私をそっと下ろし、優しく抱きしめる。「これから、もっと大切にするからね。無理は絶対にさせない」
「はい」
私も涙が止まらなかった。幸せで、不安で、期待で——心が満ちていた。
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翌日、国王陛下と王妃陛下に報告した。
「なんと! 王家に新しい命が!」と国王陛下が喜びの声を上げた。
「おめでとう、リーゼ。これからは体を第一に考えなさい。医師としての仕事も大事だけど、お腹の子が一番大切よ」と王妃陛下が私を抱きしめてくれる。
「はい」
「リーゼ、妃の執務は当分減らしてよい。研究も無理のない範囲で。そして——」国王陛下が真剣な顔で言い、微笑んだ。「王国中で祝祭を開こう。王家の慶事として、民と共に喜びを分かち合うのだ」
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数日後、妊娠の発表が王国中に広まった。王都の街角では「王妃殿下がご懐妊だそうだ! 素晴らしいニュースだ!」と人々が心から喜んでくれていた。医学院でも「リーゼ先生、おめでとうございます!」とエルヴィン、マルティン、学生たちが祝福してくれる。
「ありがとう、みんな」と私は涙が出そうになった。こんなに多くの人に祝福されるなんて。
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でも——すべてが順調というわけではなかった。保守派の貴族たちは相変わらず冷たく、「妊娠したのにまだ医学院に通うつもりか」「王妃としての品位が……」というような声も聞こえてきた。
でも私は諦めなかった。妊娠は病気ではない。適切に体調管理をすれば、研究を続けることはできる。
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ある日、辺境領から父と母が王都を訪ねてきた。
「リーゼ! おめでとう……おめでとう……」と母が涙を流しながら私を抱きしめる。
「お母様……」
「よく頑張ったな。もうすぐお前も母親になるのか」と父が優しく私の頭を撫でた。
「お父様も、もうすぐ祖父ですね」と私が笑うと、父も照れくさそうに笑う。
「マルタもとても喜んでいたぞ。体が弱いから来られなかったが——これはマルタが縫ってくれた産着だ」と父が小さな包みを渡してくれた。
包みを開けると、柔らかな布で作られた小さな産着。丁寧に刺繍が施されている。
「マルタ……」と涙が溢れる。「必ず、元気な子を産みます」と私は両親に誓った。
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妊娠三ヶ月——つわりはまだ続いていたが、私は研究を続けた。ジフテリア抗毒素血清の量産体制が確立されつつあり、次は破傷風の抗毒素血清、そしてコレラのワクチン。やるべきことはまだまだある。
「リーゼ先生、無理をしないでください。お腹の赤ちゃんのためにも」とエルヴィンが心配そうに言う。
「大丈夫よ。座ってできる仕事だけにしているから。実験はあなたたちに任せるわ」と私は微笑んだ。
私の役割は変わってきている。自分で実験をするのではなく、若い研究者たちに指示を出し育てる。それも大切な仕事だ。
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妊娠四ヶ月——お腹が少しふくらんできた。アレクサンダーが毎晩お腹に話しかけてくる。
「元気に育ってるかな」
「ええ、順調よ」
「男の子かな、女の子かな」
「どちらでも嬉しいわ。健康に生まれてくれればそれでいい」と私は夫の手を取った。
「そうだね。でも女の子なら君みたいに賢くて優しい子になるといいな」と夫が微笑む。
「男の子なら?」
「君みたいに、強くて思いやりのある子に」
私たちは笑い合った。
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ある日、王立病院で若い妊婦が運び込まれてきた。激しい腹痛と出血——切迫流産の危険がある。
「リーゼ先生! お願いします! この患者さん、妊娠六ヶ月ですが前置胎盤の疑いがあります」と担当医が駆け寄ってきた。
私はすぐに診察室に向かった。自分も妊婦だが医師でもある。目の前に苦しむ人がいるなら、助けなければ。
患者は十八歳の若い女性。顔は蒼白で冷や汗をかいている。
「大丈夫よ。必ずあなたと赤ちゃんを守るわ」と私は彼女の手を握った。
超音波検査(この世界では魔法増幅器を使った画像診断)で確認すると、胎盤が子宮口近くにある。前置胎盤——確定だ。
「絶対安静が必要です。出血を抑える薬草を投与して。そして子宮収縮を防ぐために——」と私は担当医に指示を出す。
私は前世の知識を総動員した。マグネシウムを含む薬草、止血効果のあるハーブ。そして何よりも——患者の不安を取り除くこと。
「あなたの赤ちゃんは元気よ。心拍も正常。このまま安静にしていれば必ず無事に生まれるわ」と私は彼女に微笑みかけた。
「……本当に?」と彼女が涙を流す。
「本当よ」と私は自分のお腹を撫でる。「私ももうすぐ母親になるの。だからあなたの気持ちが分かる。一緒に頑張りましょう」
彼女が安心した表情で頷いた。
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その夜、アレクサンダーに叱られた。
「リーゼ! 妊娠中なのになぜ診察を! 君の体は君だけのものじゃないんだぞ。お腹の子のことを考えてくれ」と夫が真剣な顔で言う。
「……ごめんなさい」と私は頭を下げた。確かに無理をしすぎた。
「でも——あの患者さんも、お腹に赤ちゃんがいたんです。私と同じように不安で怖くて。だから助けたかったんです」と私は夫を見つめた。
夫が深くため息をつき、私を抱きしめる。
「リーゼ……君は本当に優しいな。でも約束してくれ。これからはもっと慎重に。緊急時以外は他の医師に任せる」
「はい。約束します」と私は頷いた。
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妊娠五ヶ月——胎動を感じた。お腹の中で小さな命が動いている。
「殿下、触ってみてください」と夫の手をお腹に当てる。
「……動いた! 本当に生きてるんだね」と夫の目が輝いた。
「ええ」
私は幸せで涙が出そうになった。この小さな命を——必ず守り抜く。医師として、母として。
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ある日、エリーゼが特別な提案をしてくれた。
「リーゼ、妊婦のための医療マニュアルを作りましょう。妊娠中の注意事項、栄養管理、緊急時の対処法——あなたの経験と知識をすべて記録するの。そうすれば王国中の妊婦が恩恵を受けられる」とエリーゼが説明する。
素晴らしいアイデアだった。
「やりましょう。私の経験をすべて書き残します」と私は即答した。
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それから数週間、私とエリーゼは『妊婦のための医療ガイドブック』を執筆した。妊娠各期の症状、必要な栄養素、危険な兆候の見分け方、安全な出産のための準備、そして新生児のケア——前世の知識とこの世界の実践を組み合わせた包括的なマニュアル。
「完成したわ。これで多くの母親と赤ちゃんを救える」と私は分厚い原稿を見つめた。
「素晴らしい。王立印刷局で大量に印刷しよう。王国中の助産師と医師に配布する」とアレクサンダーが誇らしそうに言った。
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妊娠六ヶ月——私の医学院での執務は大幅に減らされた。週に二日、午前中のみ。研究会議への参加と重要な決定事項の承認。それ以外は王宮で静かに過ごす。本を読んだり、編み物をしたり——生まれてくる子供のための準備。
でも時々、医師としてもっと働きたいという思いが湧いてくる。そんな時お腹の赤ちゃんが動く。まるで「ここにいるよ」と言っているように。そして私は気づく——今の私の最も大切な使命は、この子を無事に産むこと。
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ある夜、私は日記を書いた。
『親愛なる我が子へ
あなたはまだ生まれていません。でも私はもうあなたを愛しています。
私は二つの人生を生きてきました。前世では医師として多くの命を救おうとしましたが、自分自身を犠牲にして孤独に死にました。
この世界に転生して——家族の愛を知り、仲間の支えを感じ、そして今、母となる喜びを知りました。
あなたに教えたいことがたくさんあります。医学のこと、人を助けることの尊さ、そして何よりも——愛されることの素晴らしさ。
私は完璧な母親にはなれないかもしれません。医師としての仕事も続けたいし、王妃としての責務もあります。
でも約束します。あなたを全身全霊で愛します。あなたの笑顔のために生きます。あなたが幸せになれる世界を作ります。
もうすぐ会えるね。待っています。
あなたの母より』
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日記を閉じると、アレクサンダーが私の肩を抱いてくれた。
「良い母親になるよ、君は」
「……自信がないわ」
「大丈夫。僕たち二人でこの子を育てるんだ。そしてたくさんの人が支えてくれる。エリーゼ、エルヴィン、父上、母上、君の両親——みんながこの子を愛してくれる」と夫が微笑む。
その言葉に涙が溢れた。
「ありがとう」
「こちらこそ。君とこの子に出会えて——僕は世界で一番幸せな男だよ」と夫が私の額にキスをした。
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窓の外には満月が輝いている。お腹の中で赤ちゃんが動いた。
新しい命——新しい希望——もうすぐ私たちの元に来る。
十九歳の私。王妃として、医師として、そして——母として。
新しい人生の章が、始まろうとしていた。
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