第100話 王妃の責務と新たな挑戦
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結婚式から一週間——私は、王妃としての新しい生活を始めていた。だが、それは想像以上に多忙なものだった。
結婚により、私の名前は公式には「リーゼ・フォン・アーレンスベルク王妃殿下」となった。だが、医学の世界では——これまで通り「リーゼ・フォン・ハイムダル」を名乗ることが許された。
王国の医療を発展させてきた「ハイムダル」の名は、すでに多くの人々に知られている。その実績を継承するため、そして医師としての独立性を保つため——二つの名前を使い分けることになった。
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朝、六時。侍女たちが部屋に入ってくる。
「リーゼ妃殿下、お目覚めの時間でございます」「ありがとう、カタリナ」
私は起き上がった。王妃としての一日が始まる。
まず、着替え。王妃にふさわしい、格式高いドレス。髪を結い上げ、簡単な化粧を施す。
「今日のご予定でございますが——」と侍女長のカタリナが、スケジュール表を読み上げた。「午前八時、国王陛下との朝食会」「午前九時、王立医学院総裁としての執務」「正午、貴族夫人たちとの茶会」「午後二時、孤児院の視察」「午後四時、ジフテリア抗毒素血清研究の会議」「夕方六時、アレクサンダー王子殿下との晩餐」
……多い。王妃としての公務と、医学院総裁としての仕事。そして、研究者としての活動。すべてを両立させなければならない。
「分かりました」と私は頷いた。「一つずつ、丁寧にこなしていきます」
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午前八時——王宮の朝食室。国王陛下、王妃陛下、そしてアレクサンダーと共に朝食を取る。
「リーゼ、新しい生活には慣れたか?」と国王陛下が尋ねた。「はい、陛下。少しずつ慣れてきております」「無理をするなよ」と王妃陛下が優しく言った。「王妃の務めは重いものだ」「でも、お前は医師でもある」「両立は大変だろうが、私たちも協力する」
「ありがとうございます」
温かい家族。アレクサンダーが私の手を握った。「今日も頑張ろうな」「はい」
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午前九時——王立医学院。総裁室に入ると、エルヴィンとマルティンが待っていた。
「リーゼ先生——いえ、妃殿下」とエルヴィンが慌てて訂正した。「いいのよ、エルヴィン。研究室では先生のままで」と私は微笑んだ。「では、報告をお願いします」
「はい」とエルヴィンが書類を開いた。
「ペニシリン生産——順調です。今月の生産量は、三百キログラム。王国内の病院に供給されています」「良いわね」「改良株ストレプトマイシンも、安定供給を続けています」「素晴らしい」と私は頷いた。
「ワクチン研究の進捗は?」「牛痘ワクチンの接種数は、王都だけで五百名を超えました」とマルティンが報告した。「副作用の報告は?」「軽度の発熱が数名。重篤な症状は、ゼロです」「分かったわ。引き続き慎重に進めてください」
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そして——「ジフテリア抗毒素血清の研究ですが——」とエルヴィンが、少し困った顔をした。
「問題があるの?」「はい」と彼は説明した。「抗毒素を作るには、まずジフテリア菌の毒素を動物に投与し——その動物の血液から抗体を取り出す必要があります。でも、適切な動物が見つかっていません。馬が最適なのは分かっているのですが——」
「倫理的な問題ね」と私は考え込んだ。前世では、馬の血清が使われていた。だが、この世界で動物実験を行うには、慎重な配慮が必要だ。
「まず、小規模な実験から始めましょう」と私は提案した。「ウサギを使って、抗毒素の生成が可能かを確認する。成功したら、馬での実験に進む。ただし、動物には最大限の配慮を。痛みを最小限にし、不必要な犠牲は避ける」
「分かりました」とエルヴィンが頷いた。
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正午——王宮の応接室。貴族夫人たちとの茶会。これが、最も苦手な公務だった。
「リーゼ妃殿下、おめでとうございます」「素敵な結婚式でしたわ」「ありがとうございます」と私は微笑みながら、紅茶を飲んだ。
だが、その裏では——「でも、あの結婚式の途中で患者を診るなんて……」「王妃としての品位が……」と小声での囁きが、聞こえてくる。
私は、平静を保った。結婚式の日、トーマスの妹エマを救ったこと。それは、医師として当然の行動だった。たとえ批判されようとも、後悔はしていない。
「リーゼ妃殿下」と一人の夫人が話しかけてきた。「私の娘が、最近体調を崩しておりまして……もしよろしければ、診ていただけますか?」
「もちろんです」と私は即答した。「明日の午後、医学院にいらしてください」
「ありがとうございます!」と夫人の目が、輝いた。
その時——「ちょっとお待ちになって」と年配の貴族夫人、エリザベート・フォン・シュタインベルク伯爵夫人が立ち上がった。
「リーゼ妃殿下、失礼ですが——」と彼女は冷たい声で言った。「王妃殿下が、直接患者を診察なさるのは……いかがなものかと」
会場が、静まり返った。
「王妃殿下には、それにふさわしい務めがございます。庶民の病を診るなど——身分を忘れた行いではございませんか」
他の夫人たちが、息を呑んだ。私は、深呼吸をした。
「伯爵夫人」と私は静かに答えた。「私は、確かに王妃です。でも、それ以前に——医師です。目の前に苦しむ人がいて、私に助ける力があるなら——それを使わないことこそ、恥ずべき行いだと思います」
「ですが——」「伯爵夫人」と私は彼女の目を見つめた。「もし、あなたの大切な方が、命の危機に瀕したとき——私が『身分が違うから』と診察を断ったら、どう思われますか?」
伯爵夫人が、言葉に詰まった。
「医学に、身分は関係ありません」と私は続けた。「病は、貴族も平民も区別しません。だから、医師も区別してはならないのです」
会場に、静寂が流れた。そして——先ほどの夫人が、拍手を始めた。一人、また一人と、拍手が広がっていく。
伯爵夫人は、不満そうな顔で席に戻った。
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午後二時——王都の孤児院。王妃としての慈善活動の一環。だが、私にとっては、それ以上の意味があった。
「リーゼ妃殿下、ようこそいらっしゃいました」と院長が深々と頭を下げた。「こちらこそ、お邪魔します」
孤児院の中は——清潔に保たれているが、子供たちの服は古く、食事も質素だ。
「子供たちの健康状態は?」「最近、咳をする子が増えています」と院長が心配そうに答えた。
「診察させてください」と私は医療鞄を開いた。王妃として来たが、医師として帰るわけにはいかない。
一人ずつ、丁寧に診察する。多くは風邪だが、一人の少年の咳が気になった。
「いつから咳が出ているの?」「二週間くらい……」
私は聴診器を当てた。肺の音——湿性ラ音がある。
「院長先生、この子は肺炎の初期症状です。すぐに治療を始めましょう」と私はペニシリンを処方した。「これを一日三回、一週間続けてください」
「ありがとうございます、妃殿下!」と院長が感謝の言葉を述べた。
「それから——」と私は提案した。「孤児院に、定期的な健康診断を実施しましょう。月に一度、医学院の研修医を派遣します」
「本当ですか!?」「はい。子供たちの健康は、王国の未来です」
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孤児院を後にして、王宮に戻る途中——アレクサンダーが馬車で迎えに来てくれた。
「リーゼ、茶会のことを聞いたよ」と夫が心配そうに言った。「シュタインベルク伯爵夫人と、対立したそうだね」
「……はい」と私は頷いた。「でも、後悔はしていません」
「分かっている」と夫が私の手を握った。「君の言葉は正しい。医学に、身分は関係ない。僕も、父上も、君を支持している」
「ありがとうございます」
「ただ——」と夫が真剣な表情になった。「保守派の貴族たちは、これからも君を批判するだろう」
「覚悟はしています」「なら、約束してほしい」と夫が私を見つめた。「危険な感染症や、命に関わる状況以外では——できるだけ他の医師に任せてほしい。君は王妃だ。守るべき立場でもある」
私は考えた。確かに、すべての診察を自分でする必要はない。後進を育て、彼らに任せていくことも、私の役割だ。
「分かりました」と私は頷いた。「通常の診察は、できるだけ他の医師に任せます。でも、緊急時や、私にしかできないことは——やらせてください」
「それでいい」と夫が微笑んだ。「君は、医師である前に、僕の妻だからね」
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午後四時——王立医学院研究室。ジフテリア抗毒素血清の研究会議。エルヴィン、マルティン、そして新たに加わった若手研究者たち。
「では、実験計画を確認しましょう」と私はホワイトボードに図を描いた。「まず、ジフテリア菌を培養し、毒素を抽出します。この毒素を、少量ずつウサギに投与する。ウサギの体内で、抗体が生成される。その血液から、抗毒素を精製する」
「リーゼ先生」と若手研究者の一人が手を挙げた。「毒素の量は、どのように調整しますか?」
「最初は、LD50(半数致死量)の百分の一から始めます」と私は説明した。「徐々に量を増やし、ウサギの免疫系を刺激する。ただし、ウサギが苦しまないよう、細心の注意を払います」
「分かりました」
実験は、慎重に進めなければならない。命を救うための研究だが、そのために他の命を犠牲にすることは——できる限り避けたい。
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夕方六時——王宮の私室。アレクサンダーと二人きりの晩餐。
「今日も忙しかったね」と夫が優しく微笑んだ。「はい。でも、充実していました」と私は答えた。「孤児院の子供たちを診察できましたし——研究も進んでいます」
「無理をしていないか?」と夫が心配そうに尋ねた。
「大丈夫です」と私は夫の手を握った。「これが、私のやりたいことですから。王妃として、医師として、研究者として——すべてを全うしたいんです」
「分かった」と夫が私を抱きしめた。「でも、疲れたら休むんだよ。僕は、いつも君の味方だから」
「ありがとう」
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その夜——私は書斎で、ジフテリア抗毒素血清の論文を書いていた。
前世の知識を、この世界に適応させる。それは、簡単なことではない。でも——トーマスの妹エマのように、ジフテリアで苦しむ子供たちを救いたい。そのためなら、どんな困難も乗り越えてみせる。
窓の外には、満月が輝いている。十八歳の私。王妃として、医師として、研究者として——新しい人生が始まった。
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翌朝——研究室に驚きの報告が届いた。
「リーゼ先生! ウサギの実験が成功しました!」とエルヴィンが興奮して叫んだ。
「本当!?」と私は駆け寄った。「はい! ジフテリア毒素を投与したウサギの血液に——抗毒素が生成されています!」
顕微鏡を覗く。確かに、抗体の存在を示す反応が見られる。
「これは……」と私は感動で涙が出そうになった。「次の段階に進めるわ。馬での実験を開始しましょう。ただし、馬の健康に最大限の配慮をして」
「はい!」
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それから三ヶ月——私たちは、馬の血液から高純度のジフテリア抗毒素血清を精製することに成功した。そして、最初の臨床試験が始まった。
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王立医学院附属病院——七歳の少女が、高熱と喉の痛みで運ばれてきた。喉を見ると——白い偽膜がある。ジフテリアだ。
「すぐに抗毒素血清を投与します」と私は慎重に注射器を準備した。これが、この世界で初めてのジフテリア抗毒素血清治療。少女の腕に、ゆっくりと注射する。
「大丈夫よ」と私は少女に語りかけた。「すぐに楽になるからね」
そして——数時間後。少女の熱が下がり始めた。偽膜の拡大も止まった。
「先生……!」と母親が涙を流して私の手を握った。「娘が……娘が助かったんですね……!」
「はい」と私も涙が溢れた。「よかった……本当によかった……」
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その夜、研究室で——エルヴィン、マルティン、そして研究チーム全員が集まった。
「みんな、本当にありがとう」と私は全員に頭を下げた。「この成功は、みんなの努力の結果よ」
「いえ、リーゼ先生の指導があったからです」とエルヴィンが笑った。「これで、ジフテリアから多くの命を救えます」
「まだ始まりに過ぎないわ」と私は言った。「抗毒素血清の量産体制を整えなければならない。そして、他の病気にも——」
その時、扉がノックされた。「失礼します」と侍女のカタリナが入ってきた。「妃殿下、アレクサンダー王子殿下がお呼びです」
「分かったわ。すぐに行きます」
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王子の執務室——夫が、嬉しそうな顔で待っていた。
「リーゼ、聞いたよ。ジフテリアの治療、成功したんだって」
「はい」と私は微笑んだ。「一人の少女を救うことができました」
「素晴らしい」と夫が私を抱きしめた。「君は、本当にすごいよ。王妃として、医師として——いつも人々のために尽くしている。僕は、君を誇りに思う」
その言葉が、どれほど嬉しかったか。「ありがとう」
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そして——数週間後、ジフテリア抗毒素血清は王国中に配布され始めた。多くの子供たちが、この血清によって命を救われた。
王立医学院総裁としての仕事も、順調に進んでいる。医師の育成、新しい治療法の開発、公衆衛生の改善——やるべきことは、まだまだたくさんある。
でも、私には——支えてくれる夫がいる。信頼できる仲間がいる。そして、救うべき人々がいる。
十八歳の王妃として、医師として、研究者として——私の挑戦は、これからも続く。
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