第99話 誓いの日と新たな出発
◇
結婚式の朝——
私は王宮の控室で、白いドレスに身を包んでいた。
鏡の中には、見慣れない自分がいる。純白のシルクドレス、繊細なレースの刺繍、頭には小さな王冠。
十八歳の花嫁。いや——リーゼ・フォン・ハイムダル、王立医学院首席研究員にして、今日から王家の一員となる者。
「リーゼ様、お美しいです」と侍女たちが感嘆の声を上げた。
「ありがとう」と私は微笑んだ。
だが、心の中には不安がある。本当に、私は王妃としての務めを果たせるのだろうか。医師として、研究者としての道を歩んできた。でも、王家の一員として——国を支える立場として——何ができるのだろう。
◇
扉が開き、父が入ってきた。ヨハン・フォン・ハイムダル辺境伯——私の父。
「リーゼ」「お父様」「……美しいな」と父が目を潤ませた。「あの小さかった娘が、こんなに立派になって」「お父様、泣かないでください」「すまない。でも、嬉しくてな」
父が私の手を取った。
「リーゼ、お前は本当によく頑張った」「十歳で医学の道を志し、八年間——」「改良株ストレプトマイシン、ペニシリン、ワクチン……」「数え切れないほどの命を救ってきた」「お父様……」「そして今日、王家に嫁ぐ」
父が優しく微笑んだ。
「私は、誇らしい」
その言葉に、涙が溢れそうになった。
「ありがとうございます」「さあ、行こう」と父が腕を差し出した。「アレクサンダー王子が、待っている」
◇
王宮大聖堂——そこには、三百人を超える貴族、市民代表、各国の使節が集まっていた。王国最大の祝典。
扉が開くと、聖歌隊の歌声が響き渡った。
私は父の腕を取り、長いバージンロードを歩き始めた。
左右には、見守る人々。医学院の仲間たち——エリーゼ、ルーカス先輩、ヴィルヘルム先生。研究チーム——エルヴィン、マルティン、他の研究員たち。工場の労働者たち。治療した患者さんたち。みんなが、温かい眼差しで見守ってくれている。
そして、祭壇の前には——アレクサンダー王子殿下が立っていた。白い礼服に身を包み、剣を佩いた凛々しい姿。私を見て、優しく微笑んでくれた。
◇
祭壇の前に立つ。
大司教ハインリヒ・フォン・アルトブルク猊下が、厳かに宣言した。
「本日、ここに——」「アレクサンダー・フォン・エルンスト王子と」「リーゼ・フォン・ハイムダル辺境伯令嬢の」「神聖なる婚姻の儀を執り行う」
会場が静まり返る。
「アレクサンダー王子」と大司教が王子に問う。「あなたは、リーゼ・フォン・ハイムダルを妻として迎え」「健やかなるときも、病めるときも」「喜びのときも、悲しみのときも」「富めるときも、貧しきときも」「これを愛し、敬い、慰め、助け」「その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか」「誓います」と王子が力強く答えた。
そして、大司教が私に問う。
「リーゼ・フォン・ハイムダル」「あなたは、アレクサンダー王子を夫として迎え」「健やかなるときも、病めるときも」「喜びのときも、悲しみのときも」「富めるときも、貧しきときも」「これを愛し、敬い、慰め、助け」「その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか」
私は——一瞬、ためらった。この誓いの重さ。王家の一員となる責任。
でも——アレクサンダー王子殿下の目を見た。そこには、信頼と愛情が満ちていた。私を、ありのままに受け入れてくれた人。転生者であることも、医学に情熱を注ぐことも、すべてを認めてくれた人。
「誓います」と私は、はっきりと答えた。
◇
「それでは、指輪の交換を」
王子が、私の左手薬指に指輪をはめてくれた。白金の指輪——内側には、小さな文字が刻まれている。『Forever together』私も、王子の指に指輪をはめた。
「神の祝福のもとに、二人は夫婦となった」と大司教が宣言した。「アレクサンダー王子、花嫁に口づけを」
王子が優しく私を抱き寄せた。そして——唇が触れ合った。温かくて、優しいキス。
会場が、大きな拍手に包まれた。
◇
その時——
突然、聖堂の扉が勢いよく開いた。
「待ってください!」
会場が、どよめいた。
扉の向こうから、一人の少年が駆け込んできた。
十歳くらい——息を切らして、必死の形相。
「リーゼ先生! 助けてください!」
私は驚いた。
この少年は——
「トーマス?」
改良株ストレプトマイシンの臨床試験で、私が治療した結核患者の一人だ。
三年前、死の淵から救った少年。
「トーマス、どうしたの?」
「妹が……妹が高熱で倒れたんです!」
少年が泣きながら訴えた。
「医者に診せたけど、原因がわからないって……」
「お願いです! 先生にしか、救えません!」
会場が、ざわめいた。
結婚式の最中に、患者の救援要請。
前代未聞の事態。
大司教が困惑した表情で私を見る。
国王陛下も、厳しい顔をしている。
貴族たちの間から、囁き声が聞こえる。
「王家の婚礼を中断するなど……」
「非常識だ」
でも——
私は、トーマスの目を見た。
そこには、必死の懇願があった。
妹を救いたい。
その一心で、ここまで来たのだろう。
◇
「殿下」
私はアレクサンダー王子を見た。
「行ってもいいですか」
王子は——微笑んだ。
「当然だろう」
「え……」
「君は医師だ」
王子が優しく言った。
「目の前に苦しむ人がいて、助けを求められて」
「それを無視できるはずがない」
「でも、結婚式が……」
「式は、後で続きをすればいい」
王子が私の手を取った。
「命は、待ってくれない」
その言葉に、胸が熱くなった。
「ありがとうございます」「ただし」と王子が剣を抜いた。「僕も一緒に行く」「殿下?」「君一人で行かせるわけにはいかない」と王子が凛とした顔で言った。「僕は、君の夫になった」「君を守るのは、僕の務めだ」
会場が、再びどよめいた。
国王陛下が立ち上がった。
「アレクサンダー、リーゼ」「はい」「行け」と陛下が力強く言った。「お前たちは、王家の誇りだ」「困っている者を見捨てるような王家であってはならない」「はい!」
私とアレクサンダー王子殿下は、聖堂を駆け出した。
純白のドレスと礼服のまま——
◇
トーマスの家は、王都の下町にあった。小さな家——石造りの壁、狭い部屋。
ベッドには、七歳くらいの少女が横たわっていた。
「妹のエマです……」とトーマスが泣きながら紹介した。
私はすぐに診察を始めた。額に手を当てる——高熱。四十度近い。脈拍——速い。百二十。呼吸——浅く、速い。瞳孔——正常。首のリンパ節——腫れている。発疹——なし。喉——赤く腫れている。
「いつから熱が出たの?」
「三日前です」とトーマスの母親が答えた。「最初は軽い咳だけだったんですが……」「昨日から急に高熱になって……」
私は喉を詳しく観察した。扁桃腺が大きく腫れている。表面には、白い膜のようなものが付着している。この症状は——
「殿下、灯りを近づけてください」
アレクサンダー王子が、ろうそくを持ってきてくれた。白い礼服のまま、医療の補助をしている姿が、頼もしい。
私は喉の奥をさらに観察した。白い偽膜——扁桃から咽頭にかけて広がっている。この特徴的な所見。高熱、喉の痛み、リンパ節の腫れ、そして白い偽膜。
「……ジフテリアだわ」「ジフテリア?」と王子が尋ねた。「細菌感染症の一つです」と私は説明した。「喉に偽膜ができて、呼吸困難になります」「放置すれば、窒息死する可能性があります」「治療法は?」「抗毒素血清が必要です」
私は考えた。でも、この世界にはまだジフテリア抗毒素血清がない。開発していないのだ。では——
「気道確保と対症療法しかありません」「今すぐ、偽膜を除去する必要があります」
◇
「トーマス、お湯を沸かして」「はい!」「殿下、私の医療鞄を馬車から持ってきてください」「わかった」
王子が駆け出した。
私は、エマの喉の偽膜を慎重に除去し始めた。羊腸を加工した細い管で、吸引する。白い膜が、少しずつ取れていく。でも、すぐにまた形成される。ジフテリア菌が毒素を出し続けているからだ。
「エマ、頑張って」と私は少女に語りかけた。「すぐに楽にしてあげるから」
アレクサンダー王子が、医療鞄を持って戻ってきた。中には、ペニシリンの粉末がある。ジフテリアには、抗生物質が有効だ。
私はペニシリンを生理食塩水に溶かし、注射器で吸い上げた。そして、エマの腕に注射した。
「これで、細菌の増殖は止まります」「あとは、体力との勝負です」
◇
私は一晩中、エマの看病を続けた。純白のウェディングドレスのまま——
アレクサンダー王子も、礼服のまま、ずっと傍にいてくれた。水を運び、冷たい布で額を冷やし、私を支えてくれた。
「殿下、お疲れでしょう。休んでください」「君が起きているのに、僕だけ休めるか」と王子が微笑んだ。「僕たちは、夫婦になったんだ」「一緒に戦おう」
その言葉が、どれほど心強かったか。
夜明け——
エマの熱が、下がり始めた。
呼吸も、楽になってきた。
偽膜の形成も、止まっている。
「……よかった」
私は、安堵の息を吐いた。
「助かったわ」
トーマスと母親が、泣き崩れた。
「ありがとうございます……ありがとうございます……」
「いいえ」
私は微笑んだ。
「私は医師ですから」
◇
王宮に戻ると、朝日が昇っていた。
私たちは、ウェディングドレスと礼服が汚れ、髪も乱れていた。
でも——
大聖堂には、まだ多くの人々が待っていた。
医学院の仲間たち、研究チーム、市民代表。
誰も帰らずに、待っていてくれたのだ。
「リーゼ!」
エリーゼが駆け寄ってきた。
「患者さんは?」
「助かったわ」
「よかった……!」
大司教が、優しく微笑んだ。
「では、続きをしましょうか」
「え……?」
「婚礼の儀は、まだ完了していません」
大司教が私たちを祭壇に導いた。
「王家の婚礼は、国民の幸福を願うもの」
「そして、二人は今夜、その願いを体現しました」
「命を救うために、婚礼を中断した」
「これほど素晴らしいことがあるでしょうか」
会場が、温かい拍手に包まれた。
◇
「それでは——」
大司教が宣言した。
「神の祝福のもとに」
「アレクサンダー王子とリーゼ妃殿下の婚姻を」
「ここに正式に成立させます」
私は——リーゼ妃殿下となった。
十八歳。
医師として、研究者として、そして今、王妃として。
「殿下」
「リーゼ」
アレクサンダー王子——いや、夫が私を抱きしめた。
「これからも、一緒に」
「はい」
私は微笑んだ。
「人々を救い続けましょう」
◇
披露宴——
大広間には、豪華な料理が並んでいた。
貴族たち、市民代表、各国の使節が祝福の言葉を述べる。
そして、国王陛下が立ち上がった。
「皆、聞いてくれ」
会場が静まる。
「本日、アレクサンダーとリーゼが婚姻した」
「これは、王家にとって大きな喜びだ」
「そして——」
国王が私を見た。
「リーゼ妃殿下には、新たな役割を授ける」「王立医学院の総裁に任命する」
会場が、どよめいた。
「総裁……?」「そうだ」と国王が頷いた。「お前は、この国の医療を革新してきた」「改良株ストレプトマイシン、ペニシリン、ワクチン」「そして今夜、ジフテリアの患者を救った」「お前には、この国の医療を統括する資格がある」「王立医学院総裁として、医師の育成と医療の発展を導いてほしい」
私は——感動で言葉が出なかった。
「陛下……光栄です」「頼んだぞ、リーゼ」
◇
披露宴が終わり、私たちは王宮の新居に案内された。広い部屋——研究用の書斎も用意されていた。
「殿下、この部屋は……」「君の研究室だよ」とアレクサンダーが微笑んだ。「君は医師であり、研究者だ」「それを辞める必要はない」「でも、王妃として……」「王妃だからこそ、医療を発展させるべきだ」と夫が優しく言った。「君は、これからも人々を救い続ける」「僕は、それを支える」
涙が溢れた。
「ありがとうございます」「泣くな」と夫が私を抱きしめた。「これから、二人で新しい未来を作ろう」
◇
その夜——私は書斎で、新しいプロジェクトの計画を立てていた。
ジフテリア抗毒素血清の開発。今日のような患者を、一人でも多く救うために。
窓の外には、満月が輝いている。
十八歳の私。十歳で転生してから、八年が経った。医師として、研究者として、そして王妃として——新たな人生が始まる。
前世で救えなかった命への償い。この世界で、一人でも多くの人を救うために。
私は、ペンを走らせた。『ジフテリア抗毒素血清開発計画』
まだまだ、やるべきことはたくさんある。でも、もう一人じゃない。夫がいる。仲間がいる。そして、この国の人々がいる。
「リーゼ、まだ起きてるのか」と夫が部屋に入ってきた。「はい。新しい研究計画を……」「それは明日でいいだろう」と夫が優しく笑った。「今日は、僕たちの結婚式だ」「もう少し、二人の時間を楽しもう」
私は微笑んで、ペンを置いた。
「そうですね」
夫の手を取る。温かい手。これから、ずっと一緒に歩いていく人。
「アレクサンダー」「リーゼ」
二人は——未来へと歩き出した。




