第10話 体の鍛錬 ③
翌日から、私は新しい日課を組んだ。
朝六時起床から夜九時就寝まで、分刻みのスケジュール。
剣術の素振り、医学書の勉強、縫合練習、薬草学。
休憩時間はエマとの散歩。家族との時間も確保する。
一日八時間の勉強と訓練。
研修医時代は週に百時間以上働いていた。今はずっと楽なはずだ。
しかし、問題がある。
この体の持久力だ。
一週間後、私は限界を感じていた。
「リーゼ様、お顔色が優れませんね」
エマが心配そうに言う。
「大丈夫です。少し疲れただけで」
でも、本当は分かっていた。
十歳の体に、大人のスケジュールを押し付けている。
無理をしている。
その夜、高熱を出した。
最初は悪寒だった。
夕食の席で、背中がぞくぞくする。
スープを飲んでも、体が震える。
スープを飲んでも、喉が焼けつくようだった。
視界の端がじわりと白く滲み、音が遠のいていく。
「リーゼ、顔が赤いわよ」
母の言葉に、自分の額に手を当てる。
熱い。
「大丈夫です…少し、横になります」
立ち上がろうとして、視界が揺れた。
足がもつれる。
テーブルの端を掴んで、なんとか踏みとどまる。
「リーゼ!」
エーリヒが駆け寄る。
彼の腕に支えられながら、部屋へ戻る。
ベッドに横たわると、全身が痛い。
関節が、筋肉が、骨が——すべてが悲鳴を上げている。
「リーゼ!」
母が駆けつけてくれた。
額に手を当てる。
「こんなに熱い……お医者様を呼ばなきゃ…でも、この村には…」
「大丈夫…ただの疲労です」
私は微弱な声で言った。
医学知識がある。
これは過労による発熱。免疫力の低下。体からの警告。
安静にして、水分補給をして、休息を取れば治る。
でも——
情けなかった。
医師を目指しているのに、自分の体調管理もできない。
前世と同じ過ちを、繰り返している。
視界がぼやける。
意識が遠のいていく。
最後に聞こえたのは、母の心配そうな声だった。
三日間、寝込んだ。
その間、家族が付きっきりで看病してくれた。
母が額を冷やしてくれる。
父が薬草の煎じ薬を作ってくれる。
エーリヒが本を読んでくれる。
エマが食事を運んでくれる。
……私は、こんなに愛されているんだ。
その実感が、胸を温かくした。
あの頃、誰も看病してくれなかった。
病気になっても、一人でアパートで寝ていた。
でもこの世界では、家族がいる。
大切にしてくれる人たちがいる。
涙が溢れた。
「リーゼ、どこか痛いの?」
母が心配そうに尋ねる。
「ううん…嬉しくて」
「嬉しい?」
「みんながそばにいてくれて…嬉しいの」
母は優しく微笑んで、私の頭を撫でてくれた。
「当たり前よ。あなたは私たちの大切な娘なんだから」
その言葉が、心に深く刻まれた。
三日後、熱が下がった。
ベッドから起き上がり、鏡を見る。
顔色は悪いが、目には光が戻っている。
「よし…」
もう一度、始めよう。
でも、今度は違う。
無理はしない。
体と相談しながら、少しずつ前進する。
焦らない。
以前、失敗したのは焦りすぎたからだ。
今世では、同じ過ちを繰り返さない。
診療所に行くと、エーリヒが待っていた。
「リーゼ、体は大丈夫?」
「うん。ごめんね、心配かけて」
「いいよ。でも、約束して。もう無理はしないって」
「約束する」
エーリヒは安心したように微笑んだ。
「じゃあ、新しい訓練計画を立てよう。もっと緩やかで、持続可能なやつ」
二人で机を囲み、スケジュールを見直した。
訓練時間を半分に減らす。
休息日を週に二日設ける。
体調が悪い時は、無理せず休む。
「これなら、長く続けられるね」
エーリヒの言葉に、頷いた。
医師になる道は、短距離走ではない。
長い長いマラソンだ。
ゴールに辿り着くには、ペース配分が大切だ。
窓の外を見る。
青空が広がっている。
風が、木々を揺らしている。
この世界は美しい。
そして、私にはまだ時間がある。
外の風が、頬を撫でた。
まるで"もう一度生きてみなさい"と背中を押すように。
焦らず、着実に。
一歩ずつ、前へ。
その歩幅こそ、私が生き直す速さだ。
心の中で呟き、私は再び歩き始めた。
医師への道を。
今度は、倒れないように。
体と心を大切にしながら。
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夕暮れ時、診療所の窓辺に立つ。
自分の手を見つめる。
まだ小さく、不器用なこの手。
右手の人差し指には、針で刺した傷の跡が残っている。
でも、少しずつ強くなっている。
昨日より今日。今日より明日。
一日一日、確実に。
窓の外では、エーリヒが素振りの練習をしている。
規則正しい木剣の音が、静かな夕暮れに響く。
……ありがとう、お兄ちゃん。
明日も、彼と一緒に訓練しよう。
布の上には、今日縫った練習用の縫合跡。
まだ不揃いだが、昨日よりは綺麗だ。
小さな進歩。
でも、確かな進歩。
空が、茜色に染まっている。
今日も一日が終わる。
そして、明日が来る。
手を握りしめる。
この手で、いつか人を救う。
……いや、本当にそうなれるのか?
前世では救えなかった命がたくさんあったのに。
でも。
諦めたくない。




