焼き増したセリフだけを抱えて
この町はすべてがどこか既視感に満ちている。駅前のカフェも、団地の階段も、踏切で立ち止まる学生の姿も、まるで誰かが描いた風景画をなぞったようで、決して新しくない。歩けば、どこもかしこも知っている気がして、けれどそれが本当に自分の記憶なのか、どこかで見た映像の一部なのかもわからなかった。
佳乃は、最近ずっと考えている。自分の思っていること、自分の感じていること、それを口に出すたびに、まるでどこかの誰かの言葉を借りているような気がして、いたたまれない。
「うまく言えないけどさ」と言うとき、本当に言いたいことがあるわけではない。そう言えば、何かを分かっているように聞こえるから。
「なんか分かる気がする」と返すとき、それは相手を否定したくないから。でも、分かっているふりをしているだけだと、自分で気づいている。
彼女の中にはいつからか“本当の言葉”が消えていた。
中学の頃までは、作文の時間が好きだった。自分の気持ちを、言葉で表現できたときのあのスッとする感覚。嬉しいとか、悔しいとか、そういう単純な感情でさえも、自分の形で表せたような気がしていた。でも今は、ペンを持っても、スマホを構えても、最初の一文さえ浮かばない。
そうして流れていく毎日のなかで、佳乃はどんどん無言になっていった。会話はできる。挨拶も、笑うことも、誰かに共感を示すこともできる。でも、それはただの“反応”で、自分から“発する”言葉ではなかった。
ある日、放課後の図書室で本を開いていたとき、不意に隣の席の子が話しかけてきた。
「それ、面白い?」
一瞬、なんと返すべきか迷った。“面白い”と言えば済む。でも、それだけでは何も伝わらない気がして、けれどそれ以上の何かを自分の中に見つけられない。佳乃はわずかに首をかしげて笑った。
「うん。まあまあ」
それはどこにでもある返事だった。ありきたりで、曖昧で、でも相手をがっかりさせない無難な言い回し。心の奥に何かが引っかかる。こんなはずじゃなかった、と思う。もっと、自分だけの言葉で伝えたいと思っていたのに。
「最近のドラマとかさ、どれ見ても似てるよね」
隣の子がつぶやいたそのひと言に、佳乃の胸がわずかにざわついた。それはまるで、自分自身のことを指摘されたようだった。似ている。誰もが、どこかで聞いたようなことを言い合い、どこかで見たような仕草を繰り返している。自分もその中にいて、抜け出すこともできず、だからこそ悔しい。
佳乃はその夜、机の前に座って、白紙のノートを開いた。スマホの通知を切って、何か、ほんの小さなことでもいい、自分の“本音”を書いてみようと思った。
けれど、ペン先は何も掴めなかった。
何かを言いたいという気持ちはあるのに、それを形にする語彙も勇気も出てこない。頭の中に浮かぶのは、SNSで見た誰かの言葉や、テレビのナレーション、クラスの誰かが言っていた綺麗な言い回し。自分の声が、聞こえない。
そんな夜が、何度も続いた。
ある雨の日、学校の帰り道、傘を持ってこなかった佳乃は、バス停の屋根の下でぼんやり雨を眺めていた。アスファルトに跳ねる雨粒を見て、ふと、自分の中に湧き上がる感情があった。
この景色、誰も言っていない言葉で、表してみたい。
そんな思いが、ほんのわずかに心を動かした。けれど次の瞬間、またどこかで読んだ比喩が頭に浮かぶ。雨粒が涙のようにとか、空が泣いているみたいとか。そういう誰かの言葉に、自分の感覚が塗りつぶされる。
「……違う、そうじゃない」
ぽつりと声に出したのは、自分のためだった。
たとえうまく言えなくても、借り物じゃなくても、自分の思いは、確かにここにある。そのことだけは、手放したくなかった。
佳乃は、その晩、ノートに書いた。たどたどしくてもいい、恥ずかしくてもいい。言葉にならない言葉を、何かにして残そうと決めた。
それが何になるわけでもない。
けれどきっと、どこかで、誰かの言葉に頼らなくても話せる日が来る。そう信じたくて、彼女はまた、ノートのページをめくった。