EP:06
あの地獄を思い返すだけで、吐き気と共に心が反転する。
忘れたくても、記憶が骨に焼き付いて離れない。
(落ち着け……落ち着け……!)
私はもう、あの牢屋にはいない。
醜悪な笑みも、汚物のようなそれを食す苦痛も、全身を焼かれるように襲ったあの痛みも。
薬漬けにされて、理性を失い、面白半分に身体を裂かれていた、あの地獄は、もうない。
すべて、すべて、終わったのだ。
もう、私はあそこにはいない。
頭では理解している。
けれど、心が……身体が、追いついてくれない。
身体が小刻みに震え、あの恐怖を感じてしまう。
小刻みに震える指先、勝手に浮かぶ涙。
たった数日間の出来事であったはずなのに。
記憶が、皮膚が、脳が、それを“永遠”のように焼きつけて離さない。
(気持ち悪い……くそっ……!)
耐えきれず、水差し瓶を掴んで喉に流し込んだ。
何度も何度も自分に「大丈夫」と言い聞かせた。
(もう怖くない、大丈夫、大丈夫だから)
ゆっくり深呼吸すれば、心臓の鼓動を感じて、落ち着きを取り戻していく。
窓の外を見れば、小鳥が飛び、その姿を目で追った。
今のいる場所はあそこじゃないと、自分に言い聞かせるように。
何度も何度も「大丈夫」と、自分に伝える。
ようやく震えが鎮まり、深く息を吐く。
(……うん、もう、大丈夫)
幸か不幸か。
吸血種の悪魔に買われ、あの地獄から抜け出している。
ここが――地獄でないとは、言いきれない。
私は食料として、飼殺しされるだけの人生かもしれない。
……それも、いいかもしれない。
運が、悪かった。
あの時、村が襲われた時。
あの時に、既に私の人生は終わっていた。
悪魔に襲撃されるなんて、そんな運の悪い事が起こってしまった。
あの時、私は選択を間違え、そして、命を、生きることを、一度諦めた。
それが何の因果か、今だこうして生きている。
それを、素直に喜べない時点で、もう既に――。
“聖女”として選ばれたあの日。
私は、心の底から嬉しかった。
これで、誰かの役に立てる。
誰かの命を救える。
泣いている人を笑顔にできる。
小さな私は、ただそれだけで胸がいっぱいだった。
世界を救いたいだなんて、そんな大それたことを思ったわけじゃない。
ただ、目の前で泣いている人を笑顔にできると、そう思った。
だけど、“現実”は、あまりにも酷かった。
「国王の指示無くその力を揮ってはならない」
その掟が、私を何度も何度も殺した。
魔物との戦いで傷ついた騎士を、救う事を許されなかった。
目の前で苦しみ、助けを求める声に、手を差し伸べる事が許されなかった。
“聖女”なのに。
民に祈られ、崇められる存在なのに。
その力を、目の前の民に使う事を許されなかった。
その事実に、絶望した。
幼き頃からの勉強も、訓練も、すべては何のためだったのか。
人を救うためじゃなかったのか。
この手を差し伸べるためではなかったのか。
多くの功績を残してきた。
多くの問題を解決してきた。
なのに、私は、私が望む、目の前の差し出された手を掴む事すら、許されないのか。
目の前で息を引き取る民に、傍で泣き崩れる子供に、私は、私は――。
激しい怒りは、国王様に向かった。
"聖女"の肩書がそれを邪魔するのであれば、私は返上したいと告げた。
国王様は冷たい声で、そして私を絶望の淵に落とした。
「女神から与えられしその称号を、個人の意思や我らの権限で剥奪することは出来ぬ」
「そして“聖女”は民ではなく、国に尽くす者だ」
「それを拒むことは女神への冒涜――その罪は、命一つでは償えまい」
「……この意味、分かるな?」
それはつまり、私の親族、愛する家族への死刑宣告だった。
私が崇拝し、信仰する女神様から頂きし称号。
他の誰でもない、私に与えられた称号。
それが、こんなにも、憎く、辛く、私を縛り付ける物になるなんて。
国王様が命じた者だけを癒し、国王様が命じた仕事のみが許された。
私の憧れた聖女様との乖離が、心を裂いた。
もっと声を上げるべきだったのかもしれない。
もっとやり方が合ったのかもしれない。
もっと、他に何か、手立てがあったのかもしれない。
でも、私の家族を、危険に晒す事は、したくなかった。
私が出来る、私が望める、家族を護る方法だった。
目の前の民を見捨て、私は、家族を護った。
何を言われようとも、どう蔑まれようとも、私は、家族を護った。
そうしなければ、家族が危険なのだと、そう言い聞かせた。
助けを求める声を無視した。
命令だけを忠実にこなした。
そうして、自我を保たねば、やっていけなかった。
救える命を救えない事が、これほどに辛いと、だれが知っていただろう。
……。
(私は、ここを抜け出して、生きる意味があるのだろうか……)
何一つ、出来なかったのに。
誰も、護る事が出来なかったのに。
涙が、溢れた。
(……もう、どうしたらいいか、分からない……)
心が、疲れていた。
不満ばかり溜め込んで、自分ばかり責めて。
国が悪い、世界が悪い、制度が悪い、皆が悪い。
私は悪くない。
そんな、子供じみた言い訳をして、また自己嫌悪して。
その現状を変えなかったのは私なのに。
結局誰かを頼るばかりで、自分の足で一歩踏み出す勇気も無かったくせに。
なんて、そんな風に思えても、今更もう遅い。
きっと、もしかしたら、なんて夢も考えたくない。
だけど、もし、もし、次の人生を考えるなら。
今度は、私のやりたいように生きたい。
今度こそ、誰の許しもいらない。
私の命は、私のために。
次の人生は、私の信じるままに、生きたい。
何を言われても、誰に脅されも、たとえそれで殺されようと。
次の人生は、もっと我儘に、生きたいと思う――。