EP:05
冷たい水の感触が、容赦なく顔を叩いた。
濡れた頬に泥と血のにおいが混ざり合い、呼吸すらままならない。
「……っ、けほっ……はぁ……っ」
ぼやけた視界が、ゆっくりと輪郭を取り戻してゆく。
目の前にいたのは、見知らぬ悪魔だった。
体格は小さく、身長も頭ひとつ分ほど低い。
皮膚は灰色がかり、あちこちに膿んだような瘤が浮いている。
歯は欠け、鼻は潰れ、目は左右で大きさが異なっていた。
だが、何よりも醜悪だったのは、その歪んだ笑みだった。
「気分はどうだ? 最悪か?」
「……」
「お前、人間にしては随分と魔力が多いな」
「……けほっ……」
「安心しろ。お前は高く売れる。丁重に扱ってやるよ」
ヒッヒッヒ……と耳に粘りつくような笑い声。
甲高く湿った声が、笑うたびに唾を飛ばす。
自分の身体を見下ろせば、ぼろ布を一枚まとっただけの姿だった。
首には鎖のついた首輪、両手には手枷。
裸同然の姿に、羞恥より先に冷気が刺さる。
(……生きてる……)
折れたはずの腕、切断された脚、貫かれた腹部。
それらの致命傷は、回復魔法によって繋ぎとめられていた。
"癒された"訳ではない。
"生かされた"だけの、最低限の物。
意識がはっきりしてくれば、蓄積された痛みが身体を蝕んだ。
動かない身体に、改めて満身創痍であることを思い知らされる。
(……どうして、私は……何が……)
思考は鈍く、痛みと恐怖と、奇妙な違和感に塗りつぶされる。
まともに考えることすらできない。
「なんだ、その目は。生かしてやってるだけでも感謝しろ」
悪魔は嗤った。
その声が背筋を這い上がるように、ぞわりと気持ち悪い。
「……ここは、どこ……?」
私の問いに、悪魔はアヒャヒャヒャと甲高く笑う。
「お前は商品だ。 なに、売れるまでは世話してやるよ」
「……これからどうなるの……?」
「さあな。 飼い主様の気分次第だ」
そして再び、気味の悪い笑い声。
意識は朦朧とし、痛みと疲労に瞼が落ちていく。
身体が休息を求めている。
「おい、寝るな。 これからお披露目だ」
悪魔が鎖を引く。
首輪と手枷が連動し、身体が否応なく引き起こされる。
鎖の震えすら、全身に鈍い痛みを走らせた。
「あぁ、人間は脆すぎるな」
そう呟いた悪魔が、注射器を私の腕に突き立てた。
視界がぐにゃりと歪む。
平衡感覚が失われ、痛みさえも遠ざかっていく。
意識はあるはずなのに、どこか別の場所に沈んでいく感覚。
悪魔が何かを言えば、身体が反応した。
何を言っているのかは分からなかった。
満身創痍だったはずの体が、羽根を持ったように動いた。
どこかに連れて行かれ、それからまた何か言われた。
ぼーっとする私を余所に、沢山の話声が聞こえた。
朧気な視界には、多くの黒い影を見た。
それからまた何か言われ、どこかに連れていかれた。
何か言われれば、身体が勝手に反応した。
いつのまにか牢の中に居た。
まるで夢の中にいるように、意識はぼんやりと霞んでいた。
やがて周囲が暗くなり、誰もいなくなる。
私はただ、じっと、そこに居た。
何も考えず、何も感じず、薬に支配されたまま。
時折、光が差せば再び注射される。
視界が濁り、思考が消え、そしてまたどこかへ――。
理性を取り戻すと、絶望が襲ってきた。
牢屋に一人、脱出の手段も無く。
酷く傷む身体に、冷たい部屋。
隣には毎夜叫ぶ悪魔。
恐怖で仕方なかった。
自分の肩に主従の刻印が刻まれている事にきずいた時、その刻印が憎らしかった。
絶望に耐えられず、死にたいと思った。
人間が食べる物とはかけ離れた黒い物体を出され、私は手を付けなかった。
餓死、が頭をよぎっていた。
その様子を見た悪魔は、笑いながら命じた。
「食え」
抵抗しても、身体は勝手に動く。
口に運ばれた異物を、私は呑み込むことができず吐き出した。
それでも手は止まらず、吐き出したものを再び口へと運ぶ。
吐き気、異物感、嫌悪、嘔吐。
何度も、何度も繰り返した。
やがて身体は拒絶反応を示し始めた。
悪魔はうんざりしたように舌打ちし、「世話がやける」と去っていった。
すぐに戻ってきた悪魔は、再び注射器を構えた。
「い、いや、それは嫌……!」
私が拒めば、悪魔はまたあの笑みを浮かべた。
「なら食え」
(……無理だ、それも出来ない……!)
刻印が淡く光り、気持ちとは裏腹に身体が動く。
手が、黒い物体を口に運ぶ。
咀嚼すれば、苦みと異臭、気持ち悪い感触と、言いようのない不快感に襲われ、やっぱり吐き出した。
それでも、震える手が、食えの命令を止めない。
また何度も吐き出して、身体がおかしくなる。
「動くな」
その言葉一つで、私の身体は止まった。
(……もう、嫌だ……)
胸に溢れる涙は、止まらなかった。
どうして、私はこんな目に遭うのか。
この地獄は、いつまで続くのか。
現状の全てが不満で、どうしようもない現状にただ泣きたくなった。
悪魔は自らの尾を器用に操り、動けない私に再び注射を打った。
視界が曲がる。
思考は遠のき、何もかもがどうでもよくなった。
それから悪魔が何かを命令して、私は、黒い異物を食べた。
身体が受付れば、栄養として吸収する。
薬が効いている間は、全てが霞んでいた。
だが理性が戻れば、涙が溢れた。
人格は、とっくに崩壊していてもおかしくない。
それを、壊さずに“保たせて”いたのが薬だった。
狂気の沙汰ではない。
生かさず殺さずと、言うのだろうか。
人間として扱われる事は無かった。
そんな地獄で、どれだけの時間過ごしたのか。
もう思い出せないし、思い出したくもない。
――そして私は、吸血種の悪魔に買われた。