EP:04
ほんの数日前。
私は、王都より遠く離れた辺境の村、アヴァールへと派遣された。
聖女としての職務を果たすため、数名の護衛を伴っての旅路だった。
目的は、村の北端に広がる沼地の異常を調査・浄化すること。
既に先行調査により、危険性は低いと判断されていた。
王都からアヴァール村までの道のりは決して軽いものではなかった。
乾いた風に削られた岩山を越え、魔獣の潜む密林を抜け、徒歩での移動も多かった。
一ヶ月――。
私たちはその長旅を経てようやく村へと辿り着いた。
到着したころには、護衛も私も疲弊しきっていた。
アヴァールの人々は、暖かく私たちを迎え入れてくれた。
石造りの小さな礼拝堂では、子どもたちが手を振り、年老いた村長が祈りの言葉を捧げてくれた。
人々の善良な笑顔が、荒んだ旅路の疲れを癒してくれた。
到着の翌朝、私たちはすぐに沼地の調査へと向かった。
沼の水は黒ずみ、表層に濁った魔素が漂っていた。
それは、明らかに異常だった。
村長に事情を説明し、数日間の滞在許可を得た。
――あの時、私は「聖女」としての役目を優先した。
何故沼がこの状態なのか。どうしてこうなったのか。
私はその理由に目を瞑った。考えなかった。
"私の役目ではない"と、放棄してしまった。
自分の意思で動く事を許されず「その役割を全うする様に」と。
その考えに押しつぶされていた。
今思えば、あのときが私の運命の分岐点だった。
異変が起こったのは、滞在三日目の夜。
村が、悪魔に襲われた。
それは、あまりにも突然で、理不尽で、そして一方的だった。
アヴェール村には防衛手段がなかった。
農具を手にした村人たちは、まるで虫けらのように薙ぎ倒された。
逃げ惑う人々。泣き叫ぶ幼子。立ち尽くす老人。
焼け落ちる家。爆ぜる窓。血に染まる畑の土。
耳を劈く悲鳴が、闇に溶けていく。
私は何もできなかった。
いや、何も、守れなかった。
王都から選ばれた護衛騎士たちでさえ、歯が立たなかった。
誰一人として、生き残らなかった。
私を気遣ってくれたマイクも。
不器用な優しさを持ったレオも。
笑顔が素敵で、いつもそばにいてくれたジェニファーも。
無口で、控えめで、でも一番頼りになるシュラウドも。
皆が、私の盾となって戦い、そして倒れた。
私は、私は――。
異形の姿を目にした。
湾曲した黒い角が二本。
地を裂くように太く長い尾。
黒い肉の鎧を纏い、人と獣の中間のような異質な体躯。
二本の腕に、二本の脚、人の形をしているのに、何かが決定的に違う。
近いようで、絶望的に遠い。
その姿を捉えて、私は、理解した。
「勝てない」と。
咄嗟に魔法を放った。
「凍て付け! メル・コールド!」
「貫け! メル・スピア!」
「砕けろ! メル・クラッシュ!」
魔法は確かに発動し、命中した。
けれど――それだけだった。
無傷。
その体には、かすり傷すらつかなかった。
私は、震えた。
“聖女”という肩書が、ただの幻想であることを思い知らされた。
心が、折れた。
それは恐怖でも怒りでもない。
もっと静かで、冷たい感情。
――諦め。
私は、死を受け入れたのだと思う。
潔さではない。見苦しい言い訳でもない。
ただの、敗北だった。
悪魔に、魔族に、人間は勝てない。
どんなに祈っても、どれだけ努力しても。
私たちが蟻を脅威だと感じない様に、敵だと認識しない様に。
それくらいの圧倒的な差が、種族さがある。
私は目を伏せた。
(せめて、どうか、痛みなく、終わらせてください)
出来る事もなく、最後に願いを女神様へ捧げた。
それは、あまりにも無力な、最後の抵抗。
だが、その願いすらも、踏みにじられる。
腹を貫かれる感覚。
臓腑が焼けるような熱。
「っ……ぁ……くっ……!」
咳とともに、血が口からこぼれた。
悪魔は楽しんでいた。
私の苦しみを、もがく姿を。
それは、ただの"殺し"ではなかった。
折られる腕。引き千切られる脚。削られた顔。露出した骨。
それでも、死は与えられなかった。
息をしているのが、不思議なほどだった。
(女神様……)
もう、思考は途切れ途切れだった。
怒りも、哀しみも、残されてはいなかった。
最後に残ったのは、ただひとつの、ひどく静かな思い。
「終わってほしい」と。
「もう、いい」と。
私は、ただ、死を待っていた。
哀れで、ちっぽけな、命の残り火を抱えながら。
そして私は、闇に沈んだ。