EP:03
目を覚ますと、重い瞼を感じた。
視界に映るのは、前と変わらない荘厳な天蓋。
逃げ出した記憶も、無力化された魔法も、悪魔との対話も。
どれも夢ではなかった。
(……最悪の目覚めね)
そう呟くように思いながら、ゆっくりと身を起こす。
どれほど眠っていたのだろう。
一日か、二日か。それとも長くか。
腕には点滴が繋がれていた。
私の抵抗を経て、悪魔が眠らせておく方が好都合だと判断したのだろう。
おかげで、身体は驚くほど回復していた。
包帯の奥から、微かに魔法の余韻が漂っている。
定期的に回復魔法を施してくれていたのだろう。
全快とはいかなくとも、日常生活に支障はない。
残っているのは、微かな倦怠感だけ。
(……恐ろしい)
あれほどの傷が癒えるなど、常識ではありえない。
人間の魔法では到底及ばない。
魔力の量も、質も――悪魔はまるで別の次元にいる。
少しずつ、頭を冷やし、状況を整理していく。
自分の立場を、理解しなければならない。
まずは、奴隷契約について。
この奴隷契約には、大きく二つの要素で強制力を持つ。
"契約内容"と"主と奴隷の魔力差"だ。
今回は後者、魔力差が圧倒的に致命傷。
私は一般人の数倍の魔力を有している。
だからこそ、“聖女”として崇められてきた。
だが、あの悪魔には到底及ばない。
私の五倍、十倍、それ以上かもしれない。
ともかく、魔力量の差は圧倒的で、その命令に制限はほぼ無いに等しい。
命令一つで、心拍や呼吸すら操作できる。
極端な話、身体を作り替えるような命令すら実行可能、という事だ。
圧倒的な魔力差を前に、私が抵抗できる隙は無いだろう。
ただし、わずかな可能性があるとすれば、前者。
"契約"そのものの内容。
通常、主に対して危害を加える事はできないはず。
私は、明確な殺意をもって魔法を行使しようとした。
魔法は発動しなかったが、その意思を持って行動した事が、本来なら問題だ。
通常の契約なら、その行為は制限、抑制、処罰されるはずだ。
しかし、それが無かった。
つまり、"主に危害を加える事を禁止する"、という様な”契約”になっていないのだろう。
どれほど、人間を軽視しているのかが分かる。
だが、これは大きな隙だ。
命令さえ下されなければ、私はあの悪魔に刃を向けることも、逃げ出すこともできる、という事。
……おそらくは、だが。
次に、魔法が使えなかった理由について。
悪魔は「ここで魔法は使えないよ。精霊が立ち入れないからね」と言っていた。
その時はすぐに意味が分からなかった。
けれど、今は古い言い伝えを思い出した。
「女神様が私達を見守るように、精霊様もまた、私たちと遊んでくださる」
女神様からの寵愛は感じていても、精霊様は誰もその姿を見たことがない。
曖昧で不可視の存在。
精霊様はおとぎ話に過ぎないと言われていた。
けれど――
もしかすると、魔法とは、その精霊様の力を借りて成立していたのかもしれない。
ならば、精霊がこの屋敷に入れないというのなら、ここで魔法は使えないのだろう。
逆に言えば、屋敷の外に出れば、魔法は行使できるはず。
魔力も十分。恐らく隠密の魔法も使える。
……条件さえ整えば、逃げられるかもしれない。
最大の問題は、この場所そのもの。
ここが魔王領であるならば――
人間が足を踏み入れてはならない、絶対禁域。
地理も気候も生態も、人の常識とは大きく異なる可能性がある。
仮に脱出に成功しても、その先に待つのは未知の脅威と、ほぼ確実な死。
私がただ一人で生き延びられる可能性は――限りなく低い。
そして、最も致命的なのは「情報が足りない」ということ。
魔王領が“禁忌”とされる理由を、私は知らない。
調査すらしてこなかった理由があるはず。
(……何か、策が必要ね……でも……)
この絶望的な状況で、どんな策が練れるというの?
何一つ、確かな希望もない。
どこまでが可能で、どこからが死なのかも分からない。
全て、自分の希望的観測に過ぎない。
(……)
現実を見れば、目の前は真っ暗だ。
考えがまとまらない。
心が、追いついてこない。
何もかもが、不確かで、苦しい。
――なぜ、こんなことになってしまったのだろう。