EP:02
目を覚ました時、目の前に広がっていたのは、見覚えのない天蓋だった。
(……ここは)
身体を起こそうとした瞬間、全身を駆け抜ける激痛に動きを封じられる。
「いっ……」
その痛みが引き金となり、記憶がフラッシュバックのように脳裏へ蘇った。
(そうだ、私……買われて――)
(逃げなきゃ)
痛みに耐えながら無理に上体を起こし、部屋の様子を素早く確認する。
出口は二箇所。窓と扉。
窓の外を覗けば、見知らぬ景色。
ここがどこの国かすら分からない。
下を見れば、高さは3階ほど。
(ここから飛び降りるのは……無理か)
そう判断し、扉に向かう。
動くだけで息が苦しく、全身が軋む。
気づけば、手当てを受けていたらしく、包帯が巻かれていた。
忌まわしい手枷も外されており、体内に魔力を感じる。
これなら、問題なく魔法の使用ができる。
(……よし、逃げられる……!)
扉の前で足を止め、耳を澄ませる。
(……気配は、ない。今なら――)
意を決し、扉に手をかける。
静かに、慎重に開けた。
……まさか。
気配は確かに無かった。
なのに――。
扉の先に、悪魔が立っていた。
黄金の短髪が微かに光を弾く。
紅い瞳、整いすぎた顔立ち、雪のような肌。
種族特有の長い耳と、額に小さく生えた角。
赤いピアスが三本、耳元で揺れていた。
上質な仕立ての服を身に纏うその姿は、誰が見ても「美しい」と言うだろう。
存在を知らなければ、誰もが一目で魅了されてしまう。
そして、その人間を食い物にする。
「……吸血種」
「正解」
思わず洩らした私の言葉に、悪魔は微笑みながら応じた。
ハッとして距離を取り、即座に魔法を詠唱する。
「凍て付け! メル・コールド!」
――沈黙。
何も起こらない。
(……え?)
「凍て付け! メル・コールド!」
再度の詠唱も、何も起こらない。
(なぜ!?)
「……勿体ない」
悪魔はそう呟き、面倒そうな足取りで部屋の中に入ってくる。
(何?何が起こってるの?)
選択した魔法が悪い可能性を考え、直ぐに別の魔法を詠唱する。
「貫け! メル・スピア!」
ゆっくりと近づく悪魔に、変化はない。
やはり、魔法が発動しない。
(魔力はある、詠唱も間違っていないのに……どうして!?)
何が起こってるか理解できない。
その間にも、悪魔は歩みを止めない。
「動きを封じろ! メル――」
「勿体ないって、言っただろ?」
詠唱が終わる前に、悪魔は背後を取り、私の口を塞いだ。
振り払おうとするが、その力には到底敵わない。
突如、酷い嫌悪感に襲われる。
(……っ……怖い、怖い)
恐怖が、異物感が、一気に心を支配する。
呼吸が乱れ、震えが止まらない。
意識が霞み、感覚すら遠のいていくようで。
強制的に感じさせられる、嫌悪、恐怖、異質――。
「ここで魔法は使えないよ。精霊が立ち入れないからね」
悪魔はそう言うと、私をそっと解放した。
咄嗟に距離をとる。
悪魔から離れれば、異常な感覚は無くなっていく。
全身を倦怠感が包み、冷や汗が背筋をつたった。
(これが……悪魔)
決して抗えない、相容れない。
種族の呪い――。
「屋敷からの脱出も不可能だよ。だから、“大人しくしろ”」
その言葉に、刻印が淡く光った。
それを"命令"として、身体に制限が入る。
(……っく、動けない……!)
悪魔は私の傍まで来て、静かに抱き上げた。
悪魔が近くに来るだけで、また、抗えない恐怖心に襲われる。
(……あぁ……う……っ!……怖い、怖い……)
私の気持ちとは裏腹に、悪魔はとても優しく私を抱き上げた。
それから優しく、ベッドに寝かせてくれた。
(……何が起きているの)
悪魔の言動が、理解できなくて、混乱した。
ベッドの傍で、悪魔は椅子に座った。
「まずは身体を治そう。人間はとても脆いからね」
「……目的は何ですか」
身体が"大人しくする"を行使していて、自分の意思で動かない。
話しが出来るだけ、まだ救いか。
「話は、治ってからにしよう」
「……解放してください」
「それは、無理かなぁ」
「……私をどうするつもりですか」
「大丈夫。心配しないで」
(……まともに答える気はないようね)
「……この屋敷には他に誰か?」
「眷族が数名。世話は彼らに任せる。あとで紹介するよ」
「……人間は、私だけですか」
「そう。君以外はいらないからね」
(……いらない?)
吸血種が人間を必要としないはずがない。
例え悪魔とて、食事をしなければ生命の維持が難しいはず。
私以外にも、人間のストックはあるはず……。
つまり、他の食糧は"既に"、という意味だろうか。
「……なぜ、魔法が使えませんか」
「言ったろ?精霊はこの屋敷に入れない」
「……精霊とは?」
「あぁ……。その話は、また今度にしようか」
「……ここからは、出――」
「ねぇ、他にもっと聞くことあるんじゃない?」
「……」
「俺の名前とか、誰が手当てしてくれたか、とか」
「……」
「君の名前、教えてくれる?」
「……」
「まあ、いい。できるだけ命令はしたくないし。そのうちでいい」
「……私を、どうするの」
「言っただろ。何もしないよ。君を傷つけるつもりはない」
(……つまり、生き血を好む偏食種か)
この悪魔の言動に、敵意は感じない。
すぐに殺される事は、恐らくない。
ただ、何かを判断するには、やはり情報が足りない。
「……あなたの名前は?」
「いいね。レオンって呼んで」
「……では、レオン。ここは?」
「俺の屋敷だよ」
「どの国に属してますか?」
「どこにも属していない」
(……まさか、魔王領か。最悪だ)
たとえこの屋敷から出られたとて、生きて帰る事は難しい。
人間が足を踏み入れてはならない領域だ。
……。
(私の墓場はここか……)
諦めた訳ではないが、状況は何一つ良くない。
奴隷契約。魔法封印。身体損傷。敵地の只中。
生きる希望の可能性は、限りなく低い。
「さて、食事にしよう。人間用の食事を用意させた」
悪魔は、用意された皿を私に差し出した。
(……見た目は普通。でも、信用できない)
「今は、食べたくありません」
「あまり我儘言わないで。人間には食事が必要だ」
「……」
「……はぁ、仕方ない。"食え"」
刻印が再び淡く輝き、身体が否応なく動き出す。
「っ……!」
(嫌だ……何が入ってるかも分からないのに!)
必死の抵抗も空しく、自分の手で口元へ運ばれる。
(……っ……くそ!)
命令には、逆らえない。
震えながら口に運ぶ私を、悪魔はずっと見ていた。
何もせず、言わず、ただ、見られていた。
自分の意志とは裏腹に、身体は淡々と栄養を取り込んでいく。
自分の身体なのに、自分の意思で行動できない。
屈辱。絶望。
命令されるたびに、心の抵抗力は削られていく。
(……早く、なんとかしなければ……)
悪魔の目的がなんであれ、早くここから脱出しなければならない。
食事を終えると、急激な眠気に襲われた。
(やっぱり、何か盛られていた……)
抗うこともできず、まぶたが閉じてゆく。
――遠くで、誰かの声が聞こえた気がした。
「……おやすみ」