5. カレーと大人
☆
「らっしゃっせー」
「一人です」
「お好きな席にどうぞー」
「……」
「お冷でーす」
「あの、注文いいですか?」
「了解です」
「この、熱カレーっていうのお願いします」
「熱カレー一つですね。かしこまりましたー」
「あと、ナシゴレン一つでお願いします」
「了解です。ご注文は以上でしょうか?」
「はい」
「了解でーす。熱カレー一つにナシゴレン一つですねー。しばらくお待ちくださーい」
店内に響く緩い敬語。元気さはあまりないが、サクサクと受け答えをして素早く注文を承っていた。
「店長、熱カレーにナシゴレンです」
「おうよ。任せな。すぐ用意するぜ!」
「うっす」
店長に注文を伝え、一人ほっと息を吐く店員。名前を朝崎火花と言う。つまり俺。
「……」
何故俺がカレー屋でアルバイトをしているのか。それは今より二週間前に遡る。
――二週間前。
夏の終わりのボランティアより時は過ぎ、秋も深まる十月下旬のこと。いつものようにカボス部へ赴いた俺を、紫衣さんはニコニコと素敵笑顔で待っていた。
「火花君! ボランティアです! カレー屋さんでアルバイトしましょう!」
そして俺は、カレー屋でボランティアと言う名のバイトをすることになった。
――現在
別に思い返すほどのことでもなかった。紫衣さんからの説明は少なく、拒否権もなく。気の良い店長とバイト仲間に受け入れられ、俺は一端のアルバイターになった。
勤務時間は学校の部活と同じなので、早くて十六時開始、遅くて二十時終業。その間紫衣さんはずっと店内に居座っているため、ちゃんとカウンセリングは続いている。カボス部としては問題ないのだろう。……問題ないのか?
「おう火花。今日も晩飯、食ってくだろ? 先に準備しとくぜ?」
「ありがたくもらいますけど、昨日みたいにワサビカレーとかやめてくださいよ。マジで」
「ガハハ! 味は悪くなかっただろ? 味は」
「それは……まあ」
「ハハハハ! くくく、楽しみにしておけって。オメェなら気にいるはずだぜ」
平日夕飯時の客入りは上々。個人店であまり大きくないので、席はテーブル二つにカウンター七席しかない。満席ではないが、いつも数人の客がいるくらいには繁盛している店だった。
我が物顔でテーブル席を占領する紫衣さんは、不思議なことに誰からも咎められることがなかった。俺は学校からこのカレー屋に金が払われているのではと疑っている。
疑問はさておき、そこそこに忙しく働いていればすぐ退勤時刻となった。
先輩のバイトは午前中から昼過ぎまでメインと、休日メインの二人なのであまり会うことはない。
「店長さん。私の分もくださいね!」
「お、おうよっ。任せな……!」
紫衣さんがテーブルから声を掛ける。
店内はカウンターキッチンのように席から厨房が見えているので、会話もしやすい。
露骨に照れて「へへっ」とか言っている店長は、別に紫衣さんに惚れているわけではない。ありとあらゆる"大人の女性"と相対するとこうなる超初心少年のような純粋オジサンなのだ。
「店長。そろそろ紫衣さんに慣れたらどうですか? あの人割と子供っぽいですよ」
「ばっかろお前……美人だろうが!」
「……店長って顔と体しか見てないですよね」
「声も聞いてるぜ?」
「……そっすね」
ひどい大人だ。内面は見ないのか、内面は。
「おう火花。待たせたな。今日はジンジャーカレーだぜ」
「どうも」
「ミシェラさんも、どうぞ! 是非感想を教えてくだせえ!!」
「うふふ、はいっ」
バイト用のエプロンと帽子を外し、紫衣さんの前に座る。
「お疲れ様です。火花君」
「はぁ。お疲れ様です。紫衣さんは今日もいっぱい食べましたね……」
「ふふー、美味しいものはいくらでも食べられちゃいますね!」
「太らないといいですね」
「ふふん、私、太らない体質なのでっ」
「……ならいいんじゃないっすか」
多くの女性を敵に回す、とかそんなありがちな発言はやめておいた。「いただきます」と口にしカレーを食べる。
「……うまいな」
ワサビカレーより断然うまい。店長に味の報告をし、食事を進めながら紫衣さんと話をする。
「で。このボランティアいつまで続けるんですか?」
「そうですねぇー……」
髪を耳にかけて上品にカレーを頬張り、「美味しいですねー!」とニッコリしている。可愛いと綺麗を両立させている器用な美人だ。
「火花君。二週間経ちましたけど、色々わかったことあるんじゃないですか?」
「それは」
わかったこと。カボス部であることを念頭に置いての話か。
「……後でいいですか?」
「ふふ。もちろんです」
店内では話しにくいので、と伝えたら柔らかく微笑まれた。この人は全部わかっているらしい。そりゃそうか。だから"ボランティア"で、"カウンセリング"なんだ。なんとなく少しだけ、俺がアルバイトをさせられている意味がわかった気がする。このバイトもれっきとしたボランティアだ。無論、カボス部としての。
「……店長。俺もナシゴレン欲しいです」
「あん? オメェ、金払うならいいぜ」
「うふふっ、店長さん。私もお代わりいただきたいです!」
「お、おう! ハハハ! ミシェラさんにゃサービスするぜ!! たくさん頼んでもらってるからよぉ!」
「やたっ。ふふー、ありがとうございますっ」
「落差がひど過ぎる……」
悲しいな。これが男子高校生と美人のカウンセラーに対する扱いの差か。けど俺が店長でもたぶん同じことするから何も言えねえや。
何はともあれ、食事を終え、バイトを終え、紫衣さんと二人カレー屋を後にした。
既に日は落ち、街はすっかり夜の色。暗幕の天上には幾らか欠けた楕円の月。満月はもうそろそろといったところ。
秋と言えば月見。そんなイメージがあるのは何故だろう。
「夏は蒸し暑く、冬は肌寒い。観月には秋の季節が適しているのですよ。月の出も夏と比べて早いですからね」
「普通に読心しないでもらえます?」
「うふふ、月を見上げてぼんやりしていたら、聞かなくてもわかりますよ」
「……そっすね」
ちょっと恥ずかしいか。仕草がガキっぽかったかもしれない。
月光照らす夜道を並んで歩く。コツコツと、小さな足音二つ分。……頃合いか。
「……店長、離婚するらしいです」
「そうですか」
「奥さんのこと、大好きらしいです」
「素敵ですね」
「奥さんも、店長のこと大好きらしいです」
「両想いですね」
「でも、離婚するらしいです」
「そうなんですね」
「どうしようもない、らしいです」
「そうですか」
「知ってましたね」
「はい」
立ち止まる。
一歩、二歩先で止まり振り返った紫衣さんは、いつも通りの微笑みを浮かべていた。月明かりの影響か、僅かに紫混じりの赤茶色の瞳が淡い紫一色に染まって見えた。
瞬きですぐいつもの色に戻る。気のせいだったようだ。頭を振り、話を続ける。
「知ってたのなら、どうして俺を連れてきたんですか」
「ボランティアですから」
「そうじゃなくて。……さすがに気づきます。なんで俺を、別れに引き合わせようとするんですか」
「バレちゃいましたか」
てへりと頬に手を当てている。あざといのか上品なのかわからない人だ。そんなことより。
「真面目に聞いてくださいよ。俺はっ」
「はーいお口チャックですよー」
「む……」
気づいたら目の前にいた紫衣さんに口を塞がれる。柔い手のひらがしっかりと唇を包み、一切動かせなくなってしまった。
紫衣さんは優しい顔で……ひどく優し過ぎる大人の顔で俺を見つめる。
「……」
ずるい人だ。なんでそんな顔をする。どうしてあんたが、下手したら泣きそうな、儚く消えてしまいそうな顔をするんだよ。……そんなの、何も言えないじゃないか。
「ごめんなさい、火花君。でもこれはあなたに必要なことなんです。私はあなたの何ですか?」
そっと手が外される。この問いかけは、いったい何度目だろうか。答えは決まっている。
「カウンセラーだろ……」
「正解です。火花君のカウンセラーです」
「……これも、治療のためって言うのかよ」
「はい」
「俺を別れに引き合わせるのがかよ」
「はい」
「どうして俺を……」
ずきりと頭が痛む。ひどいノイズだ。視界が霞む。
「火花君」
頭痛の隙間を縫うように声が届く。そっと、頭に感触があった。
「火花君、私を見て」
次第に痛みが薄れていく。
別離を嫌う自分の心がわからなくて、謎のトラウマに振り回される自分が情けなくて。無理やりに溜め息を飲み込み、ゆるゆると顔を上げる。
淡い紫色の瞳が俺を見つめていた。
「私を信じてください」
「……」
「この経験が未来のあなたの力になる――なんて言葉は無駄ですね。私たちは今を生きていますから」
「……あぁ」
「なので火花君」
「……なんだよ」
ニッコリと、子供のような笑みを浮かべて紫衣さんは告げる。
「私と、デートしませんか?」