黒星
◇ ◆ ◆
白く煙る浴室に、歌声がこだまがしていた。
その日の夕食後。
苑はジャックと共に入浴していた。
素早く身体を洗い終えたジャックは湯船に身を浸し、今はご機嫌に歌っている。
調子はずれなその歌も、近頃は耳馴れてしまっていた。
ここは集団生活の場だ。
熱い湯を保つためにはひとりのんびりと、とはいかず、おのずと誰かしらと共になる。
そのため長風呂のジャックとは遭遇頻度が高くなり、当然その歌声も聞き慣れてしまうのだった。
「しかし今日の晩飯も美味かったよなー」
気に入りの曲を歌い終わったジャックがしみじみと呟き、苑も静かに同意した。
そう多くの料理を口にしたわけではないが、わかる。
彼女は大変な料理上手だ。
それは比較対象──ガブリエルの料理を知って理解した。
彼女が体調を崩したときなど、時折ガブリエルが代わりに厨房に立つことがあるのだが、その出来栄えは最悪だった。
しょっぱ過ぎたり生焼けだったり、味がしなかったり固すぎたりと。
とても食べられたものではなくて、結局、外食となったこともあった。
(──……前はもっと酷いものを食わされていたのに)
ふと〝あの女〟に飼われていた頃の食事を思い起こし、苑は身体を洗う手を止めた。
床に置かれた皿。
硬い肉。
響く嘲笑。
両手を背で縛られ、膝を突かされ、畜生のように食事をさせられていた日々。
それが日常だったのに。
今は、と、自由な自分の手足を見下ろす。
温かい寝床にまともな食事。こうして身体を清める時間まで与えられて。
あまりの贅沢に、目眩を覚えるほどだった。──本当の自分はあの日、暗い夜の海で死んでいて、今はただ幸福な夢を見ているだけなのではと。
「──なあ、エン」
「! ……なに」
夢想に囚われかけていた苑を、ジャックの声が現実に引き戻す。
湯船の縁に両腕を預け、こちらをじっと見つめながら彼は言った。
「俺さ、ずーっと思ってたんだけど、その痣」
「……これか?」
「そう、その黒い星みたいな奴」
苑の背中──右上端に残る痕は、風呂を共にする同性には知れ渡っていた。
けれどこれまで、それを誰かに指摘されたことはない。
この家には、そうした古傷を持つものが少なくないからだ。
そこにいるジャックだって、そうだ。腹部に火傷と引き攣れの痕を抱えている。彼自身は『覚えてない』と笑っていたけれど、実際のところはどうだろう。本当に忘れているのか、語りたくないだけなのか。
どちらにしろ苑に詮索するつもりはなかったし、ジャックも苑の身体のあちこちに残る傷痕をいちいち尋ねてくることもなかった。
だから今、ジャックがこの痣を話題に上げたことに少なからず驚いてしまう。
「これが、どうかしたのか」
「うん。それさ、なんかどっかで見たことあるなーって思ってたんだけど、今思い出した」
ジャックは苑の肩口を見つめたまま、確信したように言った。
「ん、やっぱそうだ。姉ちゃんだ。──リー姉ちゃんにもあるんだよ。それとおんなじ星の痣」
〝他者の部屋に入るときは、まずノックをすること。〟
通い始めてまだ日の浅い学校で、苑はそう教えられていた。
面倒な慣習だ、と舌打ちする。
浴室を出、荒く寝衣を身につけた苑は、その足で彼女の寝室に向かい、拳で扉を殴りつけた。
「おい!!!」
「! なに、どうしたの!?」
驚いた彼女が、すぐに扉を開ける。
そうして廊下に佇む苑を見て、息を呑んだ。
「エン……?」
冷静でない自覚はあった。だが抑えることなどできはしない。あの女の手がかりが、目と鼻の先にあるのだから。
間髪入れることなく、苑は尋ねた。
「あんたにも焼印があるのか」
「……!」
「答えろ、あの医者と一緒に見ただろ。俺の背中の黒い星。あんたにもあるのか、だから驚いてたのか? あんたは、誰に焼かれた」
感情の赴くまま、知る単語を並べてぶつけた。
「ちょ、ちょっと待って……っ! 落ち着いて」
「答えろ」
「エン!」
背後から追いかけてきたジャックに、強く肩を掴まれる。
それでも苑は彼女から目を逸らすことはできなかった。
「ごめん姉ちゃん! エンにも珍しい痣があって、姉ちゃんとおなじだった気がして、話したら、なんでかわかんねえけどこいつ、怒っちまって」
「……そうだったの」
彼女は慌てることなく、ジャックに頷き返した。
「私は少しエンと話すわ。あなたは先に休んでらっしゃい」
「でも」
「大丈夫だから。それにほら、まだ濡れてるじゃない。しっかり拭かなくちゃダメよ」
それでもジャックは渋っていたが、アウローラが「喧嘩……?」と眠そうに目を擦りながら起きてきてしまい。それをあやすため、後ろ髪を引かれた様子のまま、アウローラを連れジャックは部屋に戻っていった。
彼女はほっとしたようにジャックたちを見送ると、「いらっしゃい」と苑を部屋に招き入れた。
もう休むところだったのだろう。
部屋の灯りは落とされ、彼女も寝衣姿だった。
「座って」
言われて、苑は寝台の縁に腰を下ろした。
窓辺の蝋燭に火を灯し直したあと、彼女も隣にやってきて、ゆっくりと話しだす。
まるで、いつかはこんなときが来ることを予想でもしていたみたいに、彼女は落ち着きを払っていた。
苑は耳をそばだてる。
「焼印があるのは本当よ。でも、あなたの痣より薄いし、場所も違うの──私は、ここ」
言った彼女は、自分の左胸を押さえていた。
心の臓がある場所だ。
「生まれてすぐ、焼かれたらしいわ」
「……じゃあ、何も覚えてないのか?」
「ええ」
「親は……?」
「いないわ。おくるみに包まれたまま、ここの玄関に放置されていたそうよ──とても元気に泣いていたんですって。それがあんまりうるさかったから、真夜中だったけどガブリエルが気づいてくれて。私は助かったの」
優しく、物語でも紡ぐかのように彼女は語った。
それは彼女にとって悲しい思い出ではなく、ガブリエルに命を救われた、幸運な過去なのかもしれない。
(…………赤子)
彼女の話に、苑はたしか、と記憶を探る。
──あの女は、焼印を押した子供らを『贄』と称していた。苑のことも。奴隷仲間のことも。
【神に捧げる贄だ。〝彼〟はとても強欲でね、汚れない魂を望むらしい】
もしもあの女が言っていた汚れない魂とやらが、赤子をも指しているのだとしたら。どこからか集めた生まれたての赤子を並べ、あの女は。
「────」
至った悍ましい光景に、苑は強く眉を寄せた。──吐き気がする。込み上げるものをすんでのところで堪えるが、一度這った怖気は消えなかった。
「……あのね、エン」
迷い迷い、といった様子で、彼女がそっと唇を開いた。
あの女とは何もかもが違う、その穏やかな声に、ほんの少し呼吸が軽くなる。
「ルイの診察で、あなたの背中を見たときにね、おなじ痣だって私も思ったの。ルイもガブリエルも、おなじ意見だった」
「…………」
苑はまだ青褪めた顔のまま、その声を聞いていた。
蝋燭の火が夜風に揺らめき、彼女の横顔を一瞬だけ翳らせる。
「……でも、私たちはこの痣のこと、何にも知らないし……あなたを苦しめるだけかもしれないって思うと、聞くに聞けなくて……内緒にしてたわけじゃないの。でも、ごめんなさい。驚いたわよね」
彼女が謝ることではない。
むしろ謝罪すべきは苑の方だった。
「俺も急に………………ごめん、なさい」
感情に任せて、乱暴な言葉を使ってしまった気がする。
彼女は何も悪くないのに。
「いいの。びっくりするのも無理はないと思うから」
それより、と彼女は気遣わしげに続けた。
「エンは、焼印をつけた人のこと覚えてるのよね?」
「…………ん」
「……私に焼印をつけた人と、同じ人なのかしら」
「……それは違うと、思う」
「? どうして?」
「…………俺に焼印をつけたのは、若い女、だったから。時間が合わない」
「……」
でもきっと近しい間柄、もしくは、同じ神を崇拝する人物に違いなかった。
苑は固く拳を握りしめる。
あの女と同じ人種が、こんな遠い国にも存在しているだなんて。
しだいに怖気は怒りへと転じていく。
必ず探し出してやる。
苑の怒気を感じ取ったのか、やはり気遣わしげに彼女が言った。
「……エンは、その女の人を探してるの?」
「………………会いたいわけじゃない」
ただ憎いだけだ。
だから探して殺す。
黒い感情を秘めたまま、苑は虚空を見つめていた。
と。突然彼女が立ち上がり、苑の正面に回って床に両膝をついた。
「エン」
そうして、そっと苑の手の上にその手を重ねてくる。
自分に向けられた緑色の瞳があまりにも澄んでいて、苑は言葉を失う。
最初に会ったとき──苑が犬食いをしたときも彼女はそんな、苦しそうな厳しい顔をしていた。どうして、とあのときは不思議でならなかったけれど。
「ひとつ、約束してほしいことがあるの」
「…………何」
「もしまたその女の人に会ったり見かけたりしても、絶対ひとりで会わないで。私かガブリエルに必ず教えて。ルイでもいいわ。お願い」
「……」
心配、してくれているのだろうか。
いいやこんな浮浪児をそんなわけがない。と思うには、苑は彼女を──リーシャの善性を知りすぎていた。
「エン」
繰り返し呼ばれる名に、苑はおずおずと頷いた。
「……わかった」
「絶対よ?」
温かい手に手を握られ、苑はもう一度頷く。
「わかった」
「忘れちゃダメよ」
「ん…………忘れない」
誓うように肯首した苑に、リーシャがようやく微笑む。
──……変だ
相反する二つの感情に、苑は困惑する。
そうやって微笑んでもらえる方が落ち着くのに、心配されるのも悪くはないなんて。
涼やかな夜の中。
苑は、橙色の灯に照らされたリーシャから、目を離すことができなかった。
◆
暇だし退屈だ。
何もかもがくだらず、色褪せて見える。
あの日から、ずっと。
了国の高級住宅が並ぶ通り。その一角にアンディックの屋敷はあった。
アンディックは部下からの報告に耳を半分だけ貸しながら、失った少年のことばかり考えていた。
(──惜しい子を喪くした)
数ヶ月前、〝贄〟として献上した積み荷のひとつ。
それが嵐に遭い全てが海の藻屑となり叱責を受けたのは記憶に新しい。
お前のせいで儀式に間に合わなかったどうしてくれるのだと散々責を問われ、金を搾りとられ、嫌味の羅列された書簡まで届けられた。
だが、その全ては些細なことでしかなかった。
この虚無に比べれば。
「お気に召しませんか?」
新しい贄候補を集めねばならないのは本当に面倒で、しかもそのどれもが彼を超えることはない。だからだろうか、この鬱屈とした気分が一向に晴れないのは。
「でしたら、これなど如何でしょう? 多少育ちすぎていますが月光色の瞳が珍しく──」
「じゃあそれで」
どれでもいい。数とそれなりの見た目が揃えば。
どうせどれもあの少年には──苑には遠く及ばないのだ。
思い、アンディックは記憶を過去に走らせる。
あれは特別賢った。怯みもせず、屈しもせず、状況を的確に把握ししかもアンディックを狙い続けていた。
……育てれば、それなりの手足になったかもしれない。
「はあ」
重いため息を溢せば、部下が怯えたように顔を硬らせた。
こいつで遊んでみるのも一興かと一瞬見遣るが、どうにも食指が動かない。
アンディックは瞑目する。自分でも、ここまで苑を気に入っている自覚はなかった。手放すのではなかったと何度後悔したことか。
(似たようなのが見つかるといいけど)
そうはいないだろうと、わかっていた。
だからこんなに、つまらないのだ。