少しずつ
◇ ◇ ◇
元々、あまり話す子じゃないのかもしれない。
けれどやっぱり気になってしまう。
ある晴れた日の午後。
ヨルンドルテで一番の大きな書店──各国の語学書が並んでいるその一角で、リーシャは、かれこれ1時間も思い悩んでいた。
「はあ……」
「幸せが逃げていってしまいますわよ」
「!」
突如かけられた声に、思わず肩を震わせる。
驚いて声のした方──隣をみると、ミーリアが悪戯めいた笑顔を浮かべていた。
通訳を頼んで以来、彼女とは出会う度、挨拶を交わす仲になっていた。
「ご存知ありません? ため息をつくと、幸せが逃げていってしまうという迷信」
「……知ってます、けど」
「ではなぜため息を?」
「…………無意識でした」
「ふふ。とても深刻なお悩みを抱えていらっしゃるのね──あの少年のことかしら? 学校にも通い始めたんですわよね?」
ミーリアは言って、リーシャが手にしていた大型の本を見つめ下ろした。
そうして、秘密を明かすようにタイトルを読み上げる。
「【世界の挨拶】──……子供向けですわね」
「……はい、了国の専門書は置いていないそうで、これにだけ少し載っていたんです」
「なるほど」
言ったミーリアは「少し拝見しても?」とリーシャの手からその本を受け取った。
絹の手袋を嵌めた手でパラパラとめくりながら、蠱惑的な笑みを浮かべる。
「あの少年のために、了国の言葉を勉強なさろうと思ったのね。偉いわ、さすがお姫様」
〝お姫様〟とは、ミーリアが名付けたリーシャのあだ名だった。
恥ずかしいから普通に呼んでほしいと何度も頼んでいるのだが、ミーリアは一向に聞き入れてはくれなかった。お姫様はお姫様だからと。
リーシャは曖昧に微笑む。
「……了国の言葉が私だけでも分かれば、あの子も、少しは心を開いてくれるかと思ったんですが」
「閉ざされてるんですの?」
「……話しはしてくれます。家事もよく手伝ってくれますし、勉強も熱心で。……でも、やっぱりほんとは心細いんじゃないかと思って……」
「ああ……まぁ、そうですわね」
了国は遠い。地図上ではヨルンドルテのはるか南方に位置し、船でもひと月はかかる距離にあった。
そんな所から独り流れ着いたエンが、不安を抱えていないわけがない。たとえどんなに平然として見えても、彼はまだ子供なのだから。
リーシャはそっと息を吐く。
「でも、浅はかですよね。だからって、私が了の言葉を覚えたって、あの子は嬉しくも何ともないでしょうに」
「そんなことありませんわよ。わたくし、よく旅をするからわかるんですの。遠い旅先で偶然同郷の人間に遭遇すると、なぜだか親近感が湧いてしまって、話も弾むのですわ」
「……そういうもの、ですか?」
「ええ、そういうものです。ですから、この本は買って損はないと思いますわよ。そうです、よろしければ発音もお教えしましょうか? もちろん代金はいただきますけれど」
「……わからなかったら、エンに聞いてみます」
「ふふ。それがよろしいですわね」
それからふたりは揃って店を出た。
紙袋に入れてもらった本を開くのが待ち遠しく、リーシャの足取りは、自然軽くなる。
(でも、自己満足にならないよう気をつけなくちゃ)
目当ての語学本を数冊買い込んだミーリアの機嫌も、ひどくいい様子だった。
日傘を差した彼女と並びながら、ゆっくり往来を進んでいく。
と、その先の曲がり角から、聞き知った元気な声が届いてきた。
──学校帰りのジャックだった。
「そー! だから、俺が悪い虫から守ってやってるってわけ!」
「悪い虫?」
「男だよおとこ! リー姉ちゃんかわいいだろ? 気立もいいし優しいし料理も上手いし! ……だからだろうな。最近よく若い男に話しかけられてんだ。けど、嫁に行くには早すぎると思うし、変な奴に引っかかって泣かされでもしたら許せないし可哀想だし。だから、俺が守ってやんなきゃなんだ」
「そうなんだ」
「おまえだって、姉ちゃんいなくなったらやだろ?」
「……まあ、うん」
興味があるのかないのか、判然としない返事をしているのはエンだ。
他の子達が見当たらない辺り、また居残って遊んでいたのだろう。エンはおそらく、ジャックに付き合わされたのだろうけれど。
「──お姫様、あの子に守られてるんですの?」
「…………みたい、ですね」
ミーリアに耳槌を打たれ、リーシャは頬を赤らめた。
(ジャックったら……)
元気なのはいいことだけれど、場所は考えてほしい。
自分を姉のように慕ってくれる彼は、いつもそうやってリーシャを大袈裟に褒めそやすのだ。
「ジャック……!」
リーシャは、まだ大声で話し続ける少年の手を取った。
「あ! リー姉ちゃん! なに? 買い物してたの?」
「そうよ。……じゃなくて……は、恥ずかしいからあんまり外で私のこと話さないでって言ってるでしょ」
「え? …………あ、あー! 聞こえてた? ごめんごめん! でも別に悪口じゃないし」
「そういうことじゃないの」
もう早く帰りましょうと、エンを振り向いたところで、彼がミーリアと向かい合っていることに気づく。
このふたりはあの日──リーシャが通訳を頼んだ日以来の再会だったはずだ。
「《----?》」
と、ミーリアが了国の言葉でエンに話しかける。
少し顔を顰めたエンが短い言葉を返す。
それにまたミーリアが返答をして──と、耳慣れない言語の応酬がはじまった。
ジャックがぽつりと呟き、リーシャも呆然と頷く。
「すげえ、なんて言ってるか全然わかんねえ」
「……私も」
エンはあまり口数の多い子ではない。
それでも話しかければ答えてくれるし、わからないことは質問もしてくれる。
でもそれは、雑談と呼ぶにはとても遠くて。
それがリーシャは、ずっと気にかかっていた。
抱えた本の袋を、ぎゅっと握りしめる。
「……口の減らないお子様ですわね」
ミーリアが呆れたようにぽつりとこぼして、会話は終わったようだった。
──口が減らない、ということはエンは本当は、よく話す子なのかしら……?
無理やり心をこじ開けるつもりはないけれど。
エンと、エンの母国語で話ができるミーリアに羨望の念を抱いてしまう。
と、そのとき。
「貸して、持つ」
相変わらず端的な言葉を用いて、エンがリーシャの肘に下がっていた買い物袋を手に取った。
本屋に行く前買っておいた野菜類だ。
その気遣いに、リーシャは心を温かくする。
「ありがとう。でも、重いから大丈夫よ」
「平気」
エンは言って、リーシャから袋を受け取った。
「今日の夕飯なに?」
そうしてやっぱり淡々と尋ねてくる。
そこに笑顔はない。けれど、こちらを見上げてくる双眸に、最初の頃の剣呑さも見当たらない。
──だとしたら、少しは心を許してくれているのかしら。
「パスタかお魚にしようと思ってるんだけど。エンはどっちがいい?」
「……魚がいい。草、のせて焼く奴」
「任せて」
少しずつ歩み寄っていけたら。
迫る夕暮れに、リーシャは決意を新たにした。