拙くとも
◇ ◆ ◆
それからまた少し、時は流れ──。
ある日の午後。
居間の机に筆記具を広げた苑は、ひとり慎重に文字を綴っていた。
開け放した窓の外からは、子供たちの笑い声が聞こえてくる。
(──ジャック、ロマ、リト、ソフィア、エドガー、カレン、……アウローラ)
心の中で発音し、一文字一文字、インクが滲まないよう丁寧に書き連ねていく。
そうしてようやく最後の一字を書き終えようとした、そのとき。
手元にふと影が落ちた。
「お、随分上手くなったじゃねぇか。ちっと見せてみろ」
苑が断るより早く、その大男──ガブリエルは、苑の手元から紙を取り上げた。
苑は不満を隠すことなく、ガブリエルを見上げる。
熊を思わせる巨体に、丸太のように肥えた腕。
顎先にだけ生えたヒゲは頭髪と同じ濃い灰色で。青い瞳の周り、目尻には数本の皺が刻まれている。
今年で五十になると豪語していたこの大熊が、孤児院を取り仕切る長だというのだが。
苑は、その大きすぎる声や、遠慮なく肩を叩いてくるところ、何より今のように許可なく人の物に触れてくる無神経さを嫌悪していた。
採点なら、彼女に頼む。
「返せ、まだ終わってない」
苑は座ったまま腕を伸ばし、ガブリエルから紙を取り返した。
「ちぇっ。いいじゃねえか、ちょっとくらい。ケチな男はモテねぇぞ」
拗ねたように口先を尖らせたガブリエルは、何故か長椅子──苑の隣に腰掛けてきた。
背もたれに巨躯を預け、こちらを見てにっと笑う。
「見ててやるよ。わかんねえとこがあったらなんでも聞け。俺は博識だぞー」
「…………」
その笑顔が無性に癪に障り、苑は思い切り顔を歪めた。
と、ガブリエルは堪えきれないという風に大口を開けて笑い出す。
「くっ……ははっ、おまえは本当に正直者だなー。いや、わかりやすくて助かるけどな」
「…………あんたも相当、わかりやすいよ」
「おお、言うようになったな」
にやにやと口の端を上げたガブリエルに、苑はまた、眉間の皺を深く刻んだ。
苑がこの港街──ヨルンドルテに流れ着いて、三月が経とうとしていた。
季節は春から夏へ移ろい、日差しもだんだんと強くなってきている。
最初は暖かいとしか感じなかった気候もこの頃は寝苦しいほどになっていた。
苑はあれから、孤児院や街の人々に言葉を習い続け、ようやく日常会話を送れるまでになっていた。
とはいえ、それはまだほとんど勘のようなものだ。
苑が通じていると思っていても、些細な点は間違っているのだろう。
それは相手の表情や言葉の詰まり具合などから容易に見てとれた。
特に子供はそれが顕著で、苑は何度も笑われたり妙な顔を返されていた。
この国の言葉は故郷──了国とは発音も文法も全く違う。
一朝一夕でどうなるものではないのだろう。
そうとはわかっていても、苑は一日でも早く習得すべくもがいていた。
でなければ、目的を果たすことが叶わないからだ。
苑は燻る苛立ちを堪えて、ガブリエルを見据えた。
異国人である自分が珍しいのか、この男は何かと苑に構ってきて鬱陶しいのだ。
「……あのひとは?」
「あ? リーシャのことか?」
「そう」
「リーシャならキッチンだ。菓子を焼くって言ってたぞ」
聞いた苑はテーブルに紙を置き、風で飛ばないよう教本の端で押さえた。インクの蓋を閉じ立ち上がったところで、ガブリエルが首を傾げてくる。
「手伝いに行くのか?」
こくりと頷けば、彼はまた、にっと笑った。
「あ、エンお兄ちゃんだ!」
最初に苑に気づいたのは、彼女ではなくアウローラだった。
孤児院で最年少の少女で、どうしてか苑に懐いている。
「こっち! 来て! 一緒にお菓子作ろ!」
厨房の戸口に立った苑に駆け寄り、腕をぎゅっと掴んでくる。
「小麦粉とね、おさとうを混ぜるの! ねこさんとかうさぎさんの形にいっぱい焼くんだよ! ね、リーお姉ちゃん!」
「ええ」
〝リーお姉ちゃん〟と呼ばれた彼女は、作業台の上で小麦粉の袋を開けているところだった。
苑はアウローラに腕を掴ませたまま、厨房の奥へと歩を進める。
「手伝う」
端的に言った苑に、彼女はいつもの笑顔を向けてくれた。
今日は緩やかな長い金髪を背中で一本の三つ編みにしていた。自分と同じだ、と苑は思った。
「ありがとう。じゃあ、卵を割ってくれる? 白身と黄身に分けてほしいんだけど……」
「わかった」
頷き、お下がりの──今の苑には少し大きすぎる白いシャツの袖を肘まで捲る。
そうして用意されていた卵の中身を分けながら、ふたつのボウルに割り入れていった。
隣で、彼女の軽やかな声が鳴った。
「エンは本当に器用で助かるわ」
……多分彼女は、自分にだけゆっくり話している。
だから彼女の言葉は、聞き取りやすいのだ。
「リーお姉ちゃん! あたしは?」
「アウローラも、いっぱいお手伝いしてくれるから助かってるわよ。いつもありがとう」
彼女に褒められ、アウローラは大きな瞳をきらきらと輝かせた。
褒め上手と受け取り上手。
仲睦まじく調理に取り掛かるふたりから目を逸らし、苑は黙々と卵を割り続けた。
一週間に一度訪れる『休日』。──彼女は毎週のように菓子を作っていた。趣味のようなものなのだろう。
苑がその手伝いを申し出るのは気分次第だったが、今日は助かったと思っていた。
あれ以上ガブリエルと会話を続けるのは耐えられなかったし、かといって別の場所に移るのも逃げ出すようで癪だったからだ。
この状態もある意味逃げだったのかもしれないが、〝手伝い〟という大義名分はある。
「ね! エンお兄ちゃんは犬さんとねこさんどっちが好き?」
「犬」
「じゃあお花とお星さまは?」
「花」
「わかった! じゃあエンお兄ちゃんには犬さんとお花をいっぱい作るね!」
「まあ、アウローラは優しいわね」
アウローラのおしゃべりに付き合いながら、3人で生地を作り上げていく。
と、そこへガブリエルに次いで声の大きな人間──ジャックが顔を覗かせてきた。
苑と同室の、赤茶色の髪の少年だ。
苑が、拙くではあるが、話せるようになってから、そのおしゃべりは更に勢いを増していた。
「お! いい匂い! クッキー?」
「そうだよ! でもまだ焼いてないよ?」
「俺鼻が効くから」
庭で遊んでいたらしいジャックは汗だくだった。
自分のマグに汲み置きの水を注ぎ、一瞬で飲み干してしまう。
「うまい……!」
そうして満足そうに手の甲で口を拭ったあと、苑に笑いかけてきた。
「おまえ勉強終わったんなら言えよな! 外行こうぜ」
「いい。暑い」
「へーきだって、今日は風もあるし! な、リー姉ちゃん、こいつ連れてってもいいだろ? 片付けは俺も手伝うからさ」
「それは助かるけど……でも、エンは暑いの苦手でしょう? 無理に連れ出しちゃ可哀想よ」
「姉ちゃんは過保護すぎ。少しは日に当たらねえと腐っちまうよ」
「…………」
ふたりの会話を聞きながら、苑は、どうやり過ごそうかと考えた。
特段暑さが苦手というわけではないのだが、ジャックたちの誘いを断る口実に使い過ぎたらしく、いつの間にか苑は暑さが苦手だと思い込まれていた。
(……そもそも〝遊ぶ〟意味がわからない)
ジャックたちはいつも、ボールの当てっこや、隠れた相手探しをたりと忙しそうに〝遊んで〟いるが、それのどこが楽しいのか、それになんの意味があるのか、苑には少しもわからなかった。
だから誘われるといつも面倒に感じてしまう。
「頼むよエン、おまえがチームに入ってくれたら勝てるんだって! それにほら、言葉の勉強になるからさ!」
「……………………少し、なら」
ジャックが言っていることも尤もかと、苑は渋々承諾した。
彼らと〝遊ぶ〟ことで、教本には載ってない言葉を学べるのも、また事実だったからだ。
「やった!」とジャックが笑う。
そうして苑の手を引こうとする手前、思い出したように彼女を見上げた。
「あ! なあ、リー姉ちゃん」
「なあに?」
「エン、随分喋れるようになったし、そろそろガッコウにも通えるんじゃねえかな?」
──でた。ガッコウ。
一週間に一度の『休日』以外、ジャックたちが毎日出かけて行く先のことだ。
そこでジャックたちはいつも、様々な勉強をしているらしい。
鼻歌混じりに生地から型抜きをしているアウローラもだ。
「ええ」
彼女が嬉しそうに頷いた。
「実はガブリエルともそろそろかしらって話してたの。ほんとはまだ少し、心配だけど……ジャックたちもいるし大丈夫よねって」
「ああ! 任せろよ! 俺が全部教えてやる! なんたって先輩だからな!」
そう満面の笑みを向けられ。
苑はまた、どう返すのが正解なのかと、戸惑っていた。